綴るということ
綴るということは食事や呼吸、排泄同様私が私であるためになくてはならない存在だと感じる。
気持ちも季節のように常に変わり続けるものだから、一瞬でも感じた気持ちや景色を残したいと思うばかりに私の携帯のメモや家のノートには大量の言葉たちで溢れている。
その言葉たちは沢山の断片的なものの集結でそれは、私の頭の中に近い。私はADHDという発達障がいがあるせいもあるのか頭の中が常に様々な情報で溢れており、いつもごった返している。
例えてみれば、片付けられない人の部屋のように私の頭の中は常に散らかって大事な物も今必要ない物も全部同じところにある。そのせいで私はいつも自分が何を考えているのか、今何が必要なのかわからなくなって自分を見失ってしまう事がよくあった。
そんな私の頭を唯一整理してくれたのは綴るという行為だった。
頭の中で止まらない思考を書き出して、文字として実体化されることではじめて私の頭の中は1つの認識として理解してくれる。けれども、それは私の脳内で感じた潜在意識の中の私であって本当の私ではない。その幾つも断片たちを拾い上げて繋げた時にはじめて本当の自分の言葉となる。その作業が私は好きだし、なによりも私に必要だ。
少し考えてみると綴るというのは少し夢に似ていると私は思う。夢の中では私の意志とは関係なく潜在している私が暴走する。その逆に、綴るというのは私の意思で潜在している私を操る。私は夢の中の自分のはちゃめちゃ具合が最高に好きなので夢の中で綴ることが出来たのであればそれはそれで最高にいいものができるのになぁといつも思う。
けれども、現実もいいところがあって夢の中では絶対に出来ないことが1つある。それは他者と通じ合うことだ。綴るということを通して、他者の核に触れることが出来る。誰かの文章を読んで心の核心に触れられた時私は、もっと生きたいと生きる言い訳ができてしまう。私はあの快感に出会いたいがために色んな本を読んでいるとは言っても過言ではないほど、あの瞬間が好きだ。そして、私もその瞬間に出会えるような文章をいつか綴ってみたいと思っている。
文章が素敵な人はその人にしか綴れない文章の羅列というものがある。小川が流れるような穏やかなものだったり、ちょっとゴツゴツした固い岩のような印象だったり、毒っぽいおどろおどろしい雰囲気だったり人それぞれの良さがある。
生き方も考え方も違う。けれども私の心の核に触れられたり、またはいつの間にかじんわり染み込んだりする文章に出会う時がある。私がその一部になれる瞬間があるのか?
分からない。
けれども見てみたいと思った。
1人で完結していたこの行為で誰かと繋がれるのであれば、私は私の綴った文を載せ続けていたい。