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挑発のデザイン論─デザインが今やらなければならないこと|久保田晃弘(レビュー:『デザインにできないこと』)

著者のシルビオ・ロルッソ(Silvio Lorusso, 1985年5月28日生)は、ポルトガルのリスボンを拠点とするイタリア人の作家、アーティスト、デザイナーである。ロルッソは2016年、ヴェネツィアのIUAV大学で「Extending Horizons: The Praxis of Experimental Publishing in the Age of Digital Networks(地平を広げる:デジタルネットワーク時代における実験的出版の実践)」と題した論文により、デザイン科学の博士号を取得した。この研究では、デジタル技術の進歩が出版という概念に与える影響を、歴史的な考察と多様な事例研究を通じて分析している。また、ロルッソ自身も「Post-Digital Publishing Archive」というプラットフォームを構築し、「生成的」アーカイブの概念を探求している。このアーカイブは、アイテムの複製や「フォーク(分岐)」の可能性を取り入れた実験的なアプローチを実装したものだ。

2023年に出版された『What Design Can't Do(デザインにできないこと)』に先立って、ロルッソは2019年に『Entreprecariat(アントレプレカリアート)』という本を発表している。この「アントレプレカリアート」という造語は、「アントレプレナー(起業家)」と「プレカリアート(不安定な労働者)」を組み合わせたもので、現代社会における不安定な労働環境と、起業家精神が求められる状況を同時に表現している。つまり、誰もが起業家であることを期待される一方で、同時に不安定な状況に置かれるという矛盾を象徴した概念である。

この「起業家」という立場を「デザイナー」に置き換えた視点こそが、本書の出発点であるように思える。実際、デザイン教育が「現実世界」の大部分を形作る一方で、自身もその文脈に深く関わってきたロルッソにとって、本書で描かれる状況や議論には、彼自身の切実な問題意識や実践が反映されている。そのため本書は、デザインの存在論的相互依存という状況を体験しながら執筆された、ある種の「内部観測」の書であるとも言える。

シルビオ・ロルッソは現在、リスボンのルソフォナ大学で助教を務め、オランダ・アイントホーフェンのデザインアカデミーにおいて情報デザイン学科のチューターも兼任している。彼は執筆活動に加え、ビデオやウェブなど多様なメディアを組み合わせたデザイン・プロジェクトを手掛けていて、ビジュアルコミュニケーション、ミーム、クリエイティブコーディング、ポストデジタル出版に関する批評的な制作や展示を行っている。

本書の構造は、デザインの理論、実践、議論における「期待(第1部)」と「現実(第2部)」の大きく2つに分かれている。そしてそれらを挟む「プロローグ」と序章にあたる第1章「中間層」、そして最後の「エピローグ」で、両者の距離に焦点を当てる。

本書の本論は2つのパートに分かれている。「期待」と名づけた最初のパートでは、デザインが純学問的な領域、分野、職業として掲げた野望を解き明かす。「現実」と名づけた2つ目のパートでは、こうした野望が普通のデザイナーや技術者、文化の専門家や学生たちの活動とどのようにかかわり、衝突するのかを取り上げる。いずれのパートでも、忘れ去られがちな過去を深掘りすることで、現在の極端な状況を解き明かしていこうと思う。

(p.63)

全編を通じて流れるテーマは、デザインへの期待が「大きければ大きいほど」、すなわち、デザインが日常的な物質的・経済的・制度的条件から「切り離されれば切り離されるほど」、デザイナーが〈幻滅〉に陥るという、ある種あたりまえの認識である。デザインは単なる美的表現や機能的ソリューションを超えて、文化的・社会的・経済的プロセスと深く結びついている。ロルッソはこの認識を出発点に、デザインにおける「幻滅」や「カオス」を掘り下げることで、デザインがいかに理想化される一方で、現実の中でその限界と向き合わざるを得ないかを浮き彫りにする。

ヨーグルトと玉ねぎ

プロローグは「スターターパック」と題されている。

スターターパック」とは、特定の職能やサブカルチャー、あるいはファンダム (愛好家たちの集まり) を特徴づけるものを白い背景に描いたミームの名前である。このミームに登場するのはアイテムであったり、ツールであったり、本や習慣ということもある。服やアクセサリーが含まれることも多く、そのことから、職業上のアイデンティティの多くは必然的に特定のステレオタイプに当てはまってそのことを知らしめているとわかる。

(p.018)

グラフィックデザインに限れば、濃密で複雑なスターターパックとして、Tumblrのブログ「クリティカル・グラフィックデザイン (Critical Graphic Design)」が3年がかりで作り上げたものが挙げられる。

(p.019)

執筆の背景には、SNS上での活発な議論があった。特にロルッソが2021年から始めたX(旧Twitter)での長大なスレッド(2023年10月の出版直前にMastodonに引き継がれた)に集まった膨大なミームが、本書の基盤となっている。本書はその副産物とも言える存在だ。ミームやソーシャルメディア上でのデザイン批評は、新しい批評の語彙を提供すると同時に、デザイン文化におけるアイデンティティ形成や権力構造に対する鋭い洞察をもたらす。そうすることでロルッソは、デザインを社会的対話の一部として位置づけ直そうとする。


注:本書の執筆直前の2021年、ロルッソは同じくMastodon上での議論を活用した「The User Condition」を執筆・公開している。この論文は、「コンピュータ・ユーザーが主体性を獲得する条件とは何か?」という問いを冒頭に掲げている。それは利便性の名の下でコンピュータの論理へのアクセスが制限され、誰かによってプログラムされたソフトウェアが形作る世界の中で、ユーザーの自律性(autonomy)の地平とは何かを問い直す試みである。ロルッソはこの問いを通じて、本書で論じるデザイナーに先行する「コンピュータ・ユーザーの主体性(agency)」について深く考察している。彼は、ユーザーがコンピュータの仕組みを読み解き、さらには書き換える力(read-write literacy)を持つことこそが主体性の核心であると定義し、この能力を行動の原点とする。その分析の基盤にはハンナ・アーレントの人間存在論が据えられている。この議論も、本書のもう一つの重要な前提を形成していると言えるだろう。


冒頭で取り上げた「スターターパック」は、ステレオタイプ化されたデザイナーの自己認識や所属意識、そして承認欲求を象徴している。同時に、それをミーム化することで、アイデンティティへの過剰な執着の滑稽さや陳腐さを浮き彫りにし、自らそれを客観視し、距離を取る。

本書にはミームをちりばめた。ミームという文化は、行為の主体が分散されていることや、「ブリコラージュする (ありあわせで物を作る) 人」の態度の好例だが、それはどちらも、デザイナーとはプランナーにすぎないという骨抜きにされた職業イメージに異を唱えるものだ。

(p.048)

このミームの両義性を起点として、ロルッソは「複雑性」と「カオス」を明確に区別しながら、デザインが社会的・文化的課題を解決する上での万能性を批判的に問い直す視点を提示する。

「カオス」とは、抑圧されていたもの (the repressed) が、専門家の失敗によって再び現れた状態である。ジェームズ・ブライドルが言うように、もしも「複雑性は飼いならすべき状態ではなく、学ぶべき教訓である」ならば、カオスとは教訓を得るもののない、ただの不満の種に過ぎない。

(p.015)

既存の秩序や構造が崩壊し、予測不能な状態に陥ったカオスの中では、従来の専門知識や合理性はもはや通用しない。カオスとは、この「抑圧されていたもの」、すなわち既存のシステムや権力構造によって排除されていたものが解き放たれた場である。デザインが「秩序を創出する」という役割を果たそうとする一方で、その秩序は現実のカオスによって常に侵食され、揺らぎ続ける。

こうした状況下で、デザイナーはこれまで賞賛されてきた「複雑性」へのアプローチを見直し、デザインを固定化された成果物ではなく、変化し続ける動的なプロセスとして捉え直す必要がある。新たな思考方法や行動様式を模索し続けることが求められるのだ。かつてのデザイナーが抱いていた「世界をより良い場所にする」という楽観的な理想と、現代のデザイナーが直面する厳しい現実との間には、想像以上に大きなギャップが存在している。

カオスはデザインに先行し、その内側で作用する。それは、安定した丈夫な秩序というデザイナー的な幻想を超えた現実の現れである。

(p.024)

しかしこうしたカオスと秩序の相互作用は、デザインの本質的な特徴でもある。

デザインについての考え方のひとつは、その行為の能力、つまりデザインが課す秩序を通して考えることだ。しかし、もっと単純かつ根本的には、デザインはヨーグルトと玉ねぎ、つまり私たちに残されたもの、私たちが陥っている困った状況でもある。

(p.024)

ここで言う「ヨーグルト」と「玉ねぎ」とは、エンツォ・マーリが2011年に著した『25 modi per piantare un chiodo(釘を打つ25の方法)』の冒頭で示されたデザインの状況、すなわち「料理を作るのに冷蔵庫にヨーグルト1カップと玉ねぎ2個しかない」という場面から引用されたものだ。

マーリは第二次世界大戦後の物資不足の時代に活躍し、限られた資源から優れたデザインを生み出したことで知られるデザイナーである。ロルッソは、この「ヨーグルトと玉ねぎ」の比喩を引用することで、デザインの単純かつ根本的な側面を強調すると同時に、与えられた条件(制約)の中で最善を尽くすという行為に、今日的な洞察を見出そうとしている。マーリの原著では、このフレーズに続いて「斬新な組み合わせ方を探さなければならないとき、私たちは試行錯誤を繰り返し、経験的にさまざまな可能性を見極めていく」と述べられている。そして読者は、奇しくも本の最後で再びこの状況に立ち戻ることになる。

スマート文化が創造する傍ら、貢献文化は維持を担う。スマート文化が創造するものはデザインと呼ばれ、貢献文化のそれはブリコラージュと呼ばれるのだ。

(p.311)

矛盾を生きる

プロローグに続く第1章「中間層」では、デザイン業界の現状や課題、特にデザイナーたちの立場や感情に焦点を当てる。この章は、デザインに対する期待と現実とのギャップを明らかにするために、業界の現状を論じるための共通基盤を提示する。

世界中のカンファレンスで繰り返される「デザインの力」という言葉の裏で、ほとんどのデザイナーはごくありふれた日常を送っている。まさに1964年のFirst Things First (大事なことを優先させる) 宣言で嘆かれた「些細な目的」で手一杯な状態なのだ。デザイン界のヒーローを信奉する風潮はまだあるものの、誰かを聖人化したりヒーローを作り出すために諸手を挙げて賞賛したりするのはあまりに時代遅れであり、人々の間に反感の空気が流れている。デザイン界のヒーローたちはまだ健在であったとしても、滅びゆく信仰の名残である。脱ヒーロー化の時代が始まったのだ。もちろん「デザインは善、デザイナーはそれを司るヒーロー」という二つの神話はすぐには払拭されないが、世の中の感情は明白だ。

(p.029)

「デザインの力」という言葉が独り歩きする中で、中堅や若手デザイナーの間に「幻滅の感覚」が広がっている。デザイナーの実際の仕事や生活との乖離が進む一方で、デザインが遍在化するにつれて、その専門性が軽視されるようになった。こうした状況下では、かつて賞賛されたカリスマ性や特別な才能を持つ特権的リーダーとしてのスターデザイナーは、もはや求められてはいない。本書は冒頭に述べられている通り、デザイン界に蔓延するこの「幻滅の感覚」を深く掘り下げるものであるが、重要なのは、

幻滅 (disillusion) とは失望(disillusionment) 、つまり狼狽や落胆という受動的な感情だけではなく、幻想を能動的に解き放つこと (disillusioning) であり、古いヴェールの一部を脱ぎ捨てて現実と向き合うことでもある。したがって、幻滅とは、覚醒と落胆の間で揺れ動く振り子のようなものである。

(p.031)

ことだ。幻滅を論じるためには、まずデザインにまつわる幻想を取り払う必要がある。それによって隠されていた現実が明らかになり、デザインに関わる人々が新たな希望を見いだせるようになる。幻想を追い求めても、その先には何もない。本書は、デザインへの幻滅を単なるネガティブな感情やムードとしてではなく、分析の対象として捉えることで、デザイナーに「挑発」を与える。幻滅と挑発は表裏一体であり、ロールモデルとして崇められていたヒーロー像の崩壊や、近代のプロジェクトと日常生活の戦略が生む矛盾に直面する中で行き詰まる、デザイナーの立場や感情に光を当てる。こうした視点を通じて、本書はデザイン全体の自己批判と能動的な再構築を促す。

そこでロルッソが提起するのが、「普通の(日常の)デザイナー」という概念である。この普通のデザイナーは、「生きた矛盾」として存在し、既存のルールや規範の中で独自の立ち位置を模索し続ける。

普通のデザイナーの役割は明らかである。─ 例外主義を避けること、つまり、ルールを形成する例外と、規範によって生み出される逸脱を別のものとして扱うのだ。その意味では、普通のデザイナーとは、規則的で決まりきった存在では決してなく、むしろ生きた矛盾と言ったほうがよい。

(p.042)

例外主義(exceptionalism)とは、自分のデザインを「作品」と呼ぶような態度のことである。スターデザイナーは、古典的なヒーロー像として、家父長的でわかりやすいペルソナをまとい、その主体性を秩序立った領域内で肯定される「作家=作品」モデルに委ねてきた。

途方もない社会問題に挑むデザイン・ヒーローの物語は、オランダのプラットフォーム「デザインにできること (What Design Can Do) 」のようなイベントにうまく取り入れられている。「デザインにできること」は「デザインの力を示し、見た目を整えるよりも多くのことができると示すこと、そして、立ち上がって責任を負い、有益な社会貢献について考えるようにデザイナーに呼びかけること」を目指して設立された。

(p.222)

普通のデザイナーは、デザインの遍在化、競争の激化、テクノロジーの進化といった変化の波に翻弄されつつも、理想と現実のギャップや専門性の軽視、さらには資本主義やテクノロジーの理不尽な影響といった日常の矛盾に正面から向き合い、その中で創造性を発揮している。デザインは特定の専門職やエリートの特権的活動ではなく、広く共有された実践のコミュニティであるべきだ。その上で、既存の枠組みを超え、新たな価値観やスキルを身につけることこそが、より良いデザイン、ひいてはより良い社会を実現するためにデザイナーが果たすべき責任であり、秘められた可能性ではないだろうか。

普通のデザイナーは、自分の役割や文化的文脈を自意識過剰なまでに自覚している。つまり、普通のデザイナーという概念は、世間一般の「誰もがデザイナーである」という主張、すなわち「自律性の死守」や「自由主義的な個人主義」を表明する主張とは大きく異なるのである。言うなれば、誰でもデザインできる世の中においてこそ、普通のデザイナーはその存在感を強めている。

(p.047)

ネガティブなものの反転

ここで思い起こされるのが、21世紀に入って本格的に議論されるようになり、近年日本でも注目を集めている「日常美学(everyday aesthetics)」である。日常美学は、私たちの「何でもない日常生活」において感性が果たす役割を明らかにしようとする学問だ。その対象は、美しい・心地よいといった「ポジティブ」な感覚だけでなく、醜い・不快といった「ネガティブ」な感覚にも及び、日常の中に潜む多様な感覚体験を包括的に考察する。

『デザインができないこと』においても、デザインにおける「美」の追求が、標準化や消費主義と深く結びついている点が指摘されている。その一方で、ミームが象徴するように、「醜い」ものや「気持ち悪い」デザインも、それ自体が批判的なメッセージや新たな視点を提供する可能性を秘めている。醜さや気持ち悪さは、デザインの従来の目的であった「秩序を作り出す」という概念に対する挑戦であり、その枠組みを揺るがす力を持っている。

デザイン文化のなかでは、美的性向は機能という概念から派生している (たとえそれに反対するデザインであったとしても!) 。機能主義を「使用価値の現れ」としてとらえると、それが美的な判断のひとつでしかないことがわかる。しかし、批判的性向が広がると、「グーテ・フォルム (美しい形) 」にこだわるデザイナーは文化的な領域で低い地位に甘んじることになるため、増え続けてやまない批判的で政治的な概念に追いつこうとする試みが始まるのである。

(p.230)

日常美学が、美的経験の対象を芸術作品や自然の風景だけでなく、掃除、料理、洗濯といったルーティンワークや、家具や日用品といった身近な物、さらには日常の生活空間(特に家)の雰囲気や配置といったあらゆる側面にまで拡大しようとしているように、普通のデザイナーもまた、日常生活に目を向ける。そして、デザインを特権的な領域に閉じ込めるのではなく、日常生活に深く根ざした価値や意味を見出そうとする。しかし、現実はそれほど単純ではない。

アーシュラ・フランクリンは「現実について語るとき、私は哲学者を気取るつもりはない。現実とは、ありふれた日常において誰もが経験しているものだと考えている」と自著に記している。この定義上のデザイナーとは誰を指すのだろうか? どのような特殊性が含まれるのだろうか? 分類すればするほど定まらない。

(p.039)

なぜなら、そうした日常そのものが、すでにデザインされたものとして存在しているからである。

職場をはじめとする日常生活のほとんどのシーンは、米国の社会学者アンソニー・ギデンズが呼ぶところの「専門家システム (expert systems) 」によって組織化され、精査され、評価されている。これらのシステムは予見に基づいて構成されており、規定の技術のほうが優位なのでそれに従うという文化が定着する。そのような状況にあった個人の自律性は損なわれる。

(p.084)

ここにもまた「近代のプロジェクト」と「日常的な戦略」の間で行き詰まる、デザイナーの矛盾と妥協が潜んでいる。

デザイナーとは、順応するものだ。マンズィーニの言葉を借りれば、「要求に応えるためには、自分たち自身や仕事のやり方をリ・デザインせざるを得ない。そもそもこれは、いまや誰しもが求められていることなのだ」。近代のプロジェクトが、個人のアイデンティティの確立や主権の獲得と繁栄という約束を果たせないのだとすれば、その申し子であるデザイナーは、自立と依存の間に置かれて、ハイパー・モダン(超近代的) な、職業を超えた存在になってしまう。

(p.052)

環境への埋め戻し

デザイナーは、デザインの「対象」について論じることが多い。「これから何をデザインすれば良いのか」「どうすればより良いデザインができるのか」「良いデザインとは何か」「それをどのように実現するのか」など、対象への問いは尽きない。しかし、ロルッソはこれらの「対象」を論じる行為そのもの、さらには対象の存在自体を疑問視し、批判の目を向ける。

意味のある秩序を与えるには、まずデザインの対象となるものとそうでないものの線引きをすることだ。デザインの対象になるものとは、デザイナーが一般的に「問題」と呼ぶものである。デザインは、秩序ある内側とカオスの状態にある外側という境界線を描く魔法陣だ。デザイナーは、変化する魔法陣の境界を守り、作り直し 、アイデアや物や人を内外に振り分ける。ところがその境界線にはあちこちに穴があり、秩序を与えようとする試みは人為的にならざるを得ないし、その結果はどうしても不安定なものとなる。

(p.013)

デザインが自ら設定した「魔法陣(Magic Circle)」の中で解決策を提供しようとしても、そのプロセスは常に不安定であり、外部要因や構造的課題から大きな影響を受けざるを得ない。この「魔法陣」は、デザインがカオスとの闘いであり続けることの象徴とも言える。

多元的で自由度の高い社会や世界から、特定の価値観に基づいて問題を切り分け、自由度を制限して取り扱いやすい領域として抽出したものが「対象」や「問題」であるとすれば、それ以外の残りの部分が「環境」に該当する。自由度の低い明確な対象(部分)に対し、環境は膨大な自由度と非自明な構造を持つ全体として存在している。

いわゆる「意地悪(wicked)ではない」特殊な問題の場合、対象と環境の結びつきは弱く、環境の影響を無視しても、対象内部やその分野の部分的な知識だけで、問題の解を見つけることが可能だった。

本書は、デザインをあまり載せていないデザイン書だ。もう少し正確に言えば、ここで取り上げているデザインとは、デザイナーがポートフォリオに載せる作品よりもむしろ、デザイナーを取り囲む物事やサービス、ひいては組織や制度、価値観、思い込みなどが作り出す、デザインされた環境のことだ。プロローグでも触れたとおり、私の関心は、仕事として取り組むプロジェクトの内容よりも、自分たちの置かれた「混乱した状況」にある。

(p.048)

普通のデザイナーが直面する今日の課題は、環境と深く結びついていて、切り離して捉えることはできない。混沌とした世界から特定の領域を切り出し、それを「問題」として秩序化する従来の方法はもはや通用しない。むしろ、これまで対象と見なされていたものが、環境を介して相互に結びつき、複雑なネットワークを形成している。問題=対象と考えられていた多くのものごとが、環境を通じて強く関連し合いながら、新たな対象が環境から生み出されると同時に、対象の振る舞いによって環境そのものも常に変化していく。

こうした状況において、デザインに求められるのは、問題=対象そのものに焦点を当てて発見し解決することではなく、対象を通じてその背後にある環境を推測し、問題そのものを直接制御するのではなく、環境との関係性を調整し変化させることである。対象と環境の相互作用を見据えたアプローチによって、デザインやデザイナーを個別の対象から切り離し、環境の中に再び埋め戻すことが可能になる。そうすることで初めて、デザインを「孤立した活動」ではなく、「環境や文脈と共に機能するもの」として再定義する道が開かれる。

2つのパニズム

デザインの野望を描く第1部「期待」では、まず「デザイン・パニズム」(汎デザイン主義)と呼ばれるデザインの遍在化現象に目を向け、その本質と影響を深く掘り下げる。

よく耳にする「誰もがデザイナー」「すべてのものがデザイン」という二つの主張は、デザインについての現在の見解を特徴づけるものだ。この包括的なデザイン観は「デザイン・パニズム (design panism) 」 (あまねくデザイン、汎デザイン) と呼ぶことができ、そのような背景において、デザイナーは自分の役割や立場を (苦しみつつ) 打ち出すこととなる。しかし、デザイン・パニズムは現実を明確に示しているというわけではなく、解釈のための枠組みで大げさとも言える手段であり、その曖昧な拡大については議論すべき課題である。

(p.068)

パニズムは、現代のデザインとデザイナーに多大な影響を及ぼしてきた。「誰もがデザイナーになれる」という理念のもと、デザイナーでない人でもデザインできるシステムを、デザイナー自身がデザインするようになった。しかし、「誰もがデザイナーになれる」という状況は、裏を返せば「デザイナーがどこにもいない」という状態と同義だ。この口当たりの良い、扇動的なパニズムは、結果的にデザイナーに無力感をもたらす。実際、すべてがデザインと見なされる世界では、デザイナーが何かをデザインする必要性そのものが失われてしまう。こうしてパニズムは、デザインの民主化を促進する一方で、デザイナーの専門性を消去するという自己矛盾を露呈した。

この使い古された決まり文句としてのデザイン・パニズムの傍で、もうひとつの新たなパニズムが登場する。

トニー・フライやアン゠マリー・ウィリスのような存在論的なデザイン観の支持者は、すべてのものがデザインで、誰もがデザイナーであるだけでなく、誰もがデザインによってデザインされていると示唆することで、デザイン・パニズムに新たな要素をもたらす。

(p.080)

存在論的パニズムは、人間と非人間の双方をデザイン行為の主体として捉えることで、デザインやデザイナーを対象から切り離し、環境の中に埋め戻すだけでなく、「誰もがデザイナーである」という考え方と「すべてのものがデザインである」という概念を同義のものとして再定義する。

デザイン・パニズムには複数の意味合いがある。「すべてのものがデザイン」という表現が示唆しているのは、私たちを取り巻く環境すべてが人工物だというだけでなく、私たちがモノを見る目そのものがすでに人工化されていることだ。自然はなく、あるのは文化だけ。具体的にはどのような文化だろう?

(p.090)

こうした存在論的パニズムのもとで、デザインやデザイナーの専門性を改めて問い直すことが、果たして可能なのだろうか?

ドン・ノーマンによれば、「専門家が厄介なのは、その分野を極めすぎると、他の専門家と考え方が似通ってしまうことだ。それに対し、無知ゆえに愚問を投げかけられることは、デザイナーの強みではないか」。デザイナーが既成概念や過去にとらわれることなく率直でいられるという彼の考え方は、とても一般的なものだ。その純粋さは、狭い専門領域に囚われることから逃避するための武器になる。しかし、それ自体もまた先入観であり、知っていること、信じていること、思い込んでいることと置き換えているだけだ。

(pp.098-099)

アルトゥーロ・エスコバルによると、デザイン文化は、拡大し続ける画一的な「ひとつの世界の世界 (One-World World) 」の形成に寄与するものであり、脱植民地主義を掲げる理論家ウォルター・ミニョーロにならって彼が「多元世界 (pluriverse) 」と呼ぶものを消し去ってしまう恐れがある。ここでの多元世界においては、「物事と存在とはその関係性“そのもの”であり、それらに先立って存在するものではない」とされる。

(pp.100-101)

専門化と汎用主義のジレンマの中で、ノーマンが指摘するデザイナーの「メタ無知」の役割は、どこに位置づけられるのだろうか。また、デザインシンセシスから脱却し、エスコバルが提唱する分散多元的な世界におけるコミュニティの自律性を育むデザインは、どのように実現可能なのだろうか。ロルッソは、専門性と自律性を根本から捉え直すことの必要性を提唱する。

デザインが打ち出す解決策はいつも形式化になってしまう。これはデザインが解決しようとする問題がそもそも定式化されているためだ。デザイナーが統合に違和感を抱くのは、デザインされた人工物が、真逆とまではいかずとも、異なる世界観を具現化しうるには限度があるという事実と関係しているのかもしれない。異質な目標や欲望の統合は、実用的というよりは物語的である。物語は、異なる考えをひとつにまとめる力がモノよりも強い。デザインによって物語は曖昧にされているのだ。こうしたことが、現在の包括的な領域としてのデザインにおいて、ストーリーテリングや人間中心主義が技術よりも優位に立つ理由をよく示しているだろう。

(p.101)

デザインにおける「物語」には、価値を伝達し、その背後にある文化、哲学、さらには政治的意図を浮き彫りにする力がある。しかし、この物語にも矛盾が内包されている。物語が過剰に強調されれば、デザインの実質的な価値が曖昧になり、物語がデザインを支配する一方で、デザインが物語を阻害するというジレンマが顕在化する。

物語による自律性

果たしてデザインは、単独で変化することが可能だろうか? 社会的な役割に依拠することなく、意味づけや意義作りの活動を根本的に変えることができるのだろうか? そして、私たちは操るべき「デザインの仕組み」を明確に見極めることなどできるのだろうか?

(p.122)

この問いに答えるためには、デザインの自律性を改めて問い直す必要がある。批判的な自律性、つまりデザインの新たな自治を定義しようとすることは、デザインという職能を単なるサービス供給の枠組みから解放し、新たな可能性を模索する試みへとつながっていく。

人類学者のアルトゥーロ・エスコバルは、デザインはコミュニティの自律性を促進することができると推測している。エスコバルが唱える自律性の概念は総称的なものではなく、彼が「アウトノミア(autonomìa、自律=自治) 」と呼ぶ、ラテンアメリカの解放運動と密接な関わりがある概念だ。またこの「自律性」は、チリの生物学者フランシスコ・バレラが提唱する、自律的な仕組みを「自己の資源を使って適切に行動することで、次の一歩を見出すこと」とするオートポイエーシスの概念から導き出された。

(p.123)

物語は、デザインプロセスやデザイナー自身のアイデンティティを形作り、デザインにおける自律性を支える重要な要素である。なぜなら、この新しい自律性は孤立を意味するものではなく、他者や文脈との関係性の中で形成されるものだからだ。自律性とは、単なる独立性や自己決定能力を指すだけではない。ロルッソは、自律性を「デザインが社会や環境とどのように相互作用するか」という、より広い視点から捉え直している。

エスコバルが提唱するコミュニティの自律性は、伝統と革新が融合するプロセスにおける物語の役割に支えられている。この物語の役割は、デザインにおいても同様である。つまり、自律性を持つデザインは、必然的に物語によって形作られる。物語は、デザインの「なぜ」という問いに対する答えを提示し、そのプロセスを正当化するとともに、そこに方向性を与える役割を果たす。これは、デザイナーが自身の価値観や目標に基づいて行動することで、自律性を獲得することを意味している。

ウロボロスを超えて

試みとしてのデザインが伝統的に環境を再構築するものであるのに対し、文化としてのデザインは主に環境によって「形作られる」。このことは、存在論的デザインの視点から得られる根本的な教訓かもしれない。

(p.124)

デザインの二面性、「環境を再構築する試み(endeavour)」としての側面と、「環境によって形作られる文化」としての側面には、どちらも特有の危険性が含まれている。環境を再構築しようとし過ぎれば、人間の意志や意図が過剰に強調され、環境との相互作用が軽視される。一方で、環境に形作られる文化を強調し過ぎれば、デザイナーの主体性や創造性が過小評価され、環境に受動的に適応することを正当化してしまう。だからこそ、この双方向性のバランスを取ることが不可欠なのだ。

今日、このバランスを決定する役割が、資本主義的・商業主義的なシステムや製品に委ねられ、デザインがインターパッシヴ(相互受動的)なものへと変質してしまった。その結果、デザインは非人格化され、不可視化されつつある。しかし逆説的に言えば、この非人格化と不可視化は、特定の個人に帰属しない、環境に溶け込んだデザインという、より大きな視点を私たちに提供する可能性を秘めている。

自らの尾を食べる蛇ウロボロスは、人間がモノをデザインし、そのモノによって人間がデザインし返されるという、デザインと人間の関係を的確に表現している。「デザインがデザインする」というトニー・フライの名言通りである。デザインは用途を決定するだけでなく、意味も決定する。デザイナーも含め、人々が世の中をどう解釈するのかも変えてしまう。しかし、このような循環性は、人々が環境によってデザインされるのと同様に、環境をデザインすることにも積極的に関与していると示唆しているのかもしれない。確かに、環境が人間をデザインする能力は、人間が環境をデザインする能力よりもずっと大きい。なぜなら人間は、あらかじめデザインされた環境のなかに生まれてくるのであって、虚空のなかに生まれてくるわけではないからだ。

(p.134)

このウロボロスのような存在論的相互依存性の中で、ロルッソがデザインやデザイナーに新たな視点を提供するものとして挙げているのが、1990年代にパーソナル・コンピュータとインターネットの普及によって生まれたアグリーデザイン(ugly design)の過剰な手法と、2000年代のデフォルト主義(defaultism)と呼ばれるミニマリズムである。

アグリーデザイン(いびつなデザイン)は、従来の美学や規範を意図的に壊すことで、デザインの意味や役割を問い直す試みである。同時に、それが特定の社会的・文化的文脈に根ざした美的規範であることを暴露し、規範に対する批判的対話を可能にする。醜さや不快感を意図的に取り入れたデザインは、従来のデザインが無意識のうちに助長してきた消費主義や環境破壊といった問題に対する批評としても機能し、デザインそのものが抱える課題や限界に対する新たな視点を提供する。

2000年代初頭から今日に至るまで、インターネットに触発されたさまざまなデザイナーたちが、DTPやウェブブラウザに初期設定されたプリセットやテンプレート、デフォルト設定を使い始めたのだ。彼ら自身が介入する部分は最小限だった。デザイナーたちはタイポグラフィの方程式からは手を引くことで、非デザイン自体がデザインであり、それは人の手によって行われるよりも早く、独自の美的自律性を持っていることを示したのである。デザイナーで作家のロブ・ジャンピエトロは、この現象を「デフォルト・システム・デザイン (Default System Design) 」と名づけた。

(pp.173-175)

デフォルト主義は、無デザイン主義でもある。意図的な介入を排し、デフォルトというデザインの暗黙の制約条件や環境の枠組みをそのまま用いることで、システムやアプリケーションのデザイナーが設定したデフォルトがどのように作られ、私たちにどのような影響を及ぼしているのかを可視化する。これは、デザインを批評的に問い直す重要な行為となる。しかし、デフォルトシステムへの依存やアウトソーシングを無自覚に行えば、それは技術への隷属主義に陥る危険を孕む。今日の生成AIの濫用に見られるように、意図を欠いたまま技術に頼ることで、予期せぬ問題を生む可能性がある。

アグリーデザインもデフォルト主義も、ソフトウェアのデザイン言語に自分たちの痕跡を残そうとした。主導権を握り、かつての地位を取り戻そうとしていた彼らの思惑に反して、グラフィックデザインはもはやスマホで写真を撮ることと同じレベルの、自律的な文化媒質 (Kulturtechnik)─ つまり専門家の仲介を必要としない日常的な実践─ へと変わりつつあった。

(p.180)

「いびつなものへの崇拝 (Cult of the Ugly) 」はグリッドを取り払い、デフォルト・システムはそれを逆に目立たせる。その一方で、デジタルプラットフォームは、グリッド (ここでは一式のルール、フォーマット、テンプレート、プリセットと定義する) を遍在的なレベルにまで昇華させることで不可視化させた。

(p.181)

「コンピュータを初期設定で理解するということは、コンピュータにプログラミングされたそれ自体に対する理解を (私たちがそのまま) 理解することであり、コンピュータに権威を与えることでさえある」。このように、機械に権限を与えて擬人化することが、意気盛んにAIをデザインへ応用しようとする今日の流れそのものである。

(pp.182-183)

ヴァナキュラーという交差点

ヴァナキュラー・デザインとは、手作りの看板、地域特有の建築様式、民芸品など、特定の場所や時代、文化に根ざした「その時代らしさ」や「地域性」を反映するデザインを指す。これまで「低級」なローカル表現として軽視されることも多かったヴァナキュラーに対し、ロルッソはその価値を再評価する。彼は、ヴァナキュラーを文化、技術、社会が交差する重要な場として捉え、それが現代デザインにどのような影響を与えるのかを深く掘り下げていく。

例えば、デザインの文脈における反規範的な「デジタル・ヴァナキュラー」は、デフォルト主義によるテクノロジーの民主化とアグリーなもの双方の痕跡を継承する。

デジタル・ヴァナキュラーを文化的に復活させる例は、現在でも数多くみられる。なかでもソーシャルメディアの投稿や求人広告に、Comic Sansのフォントを用いて、気取らない雰囲気を演出しているデザインスタジオをよくみかける。ここでComic Sansが象徴するのは、単にデジタル・ヴァナキュラーのセンスの悪さではなく、テクノロジーの民主化が残した痕跡だ。同様に「私にとってグラフィックデザインは情熱だ」という悪名高いミームは、素人への嘲笑ではなく、デフォルトのフォント、標準的なビジュアルエフェクト、クリップアートライブラリを備えたデザインソフトウェアの重要性の体現だ。

(pp.207−208)

さらにヴァナキュラーへの回帰によって、技術が物語やたとえ話の一部に変わることで、技術は文化的な意味を持つものへと進化する。

ヴァナキュラーが復活すると、それ自体がストーリー性、解釈性、道徳的な意味において「文化的」なものへ、技術が物語やたとえ話の一部に変わった。すなわちヴァナキュラーへの回帰は、技術をめぐるストーリーの創造を意味する。究極的な話として、ヴァナキュラーに対するアプローチには「皮肉に満ちた無関心」と「威厳に満ちた愛着」という2つがあり、それらはしばしば錯綜しているのが実状である。

(p.208)

機能からフォーマットへ

デザインの野望と現実の活動が衝突する現実に迫る第2部は、「形態は機能に従う(Form follows function)」というモダニズム建築やデザインの基本原則を再解釈した、「形態はフォーマットに従う(Form follows format)」という章から始まる。このタイトルは、ヘンドリック゠ヤン・グリーヴィンクのテンプレート主義に由来していて、デザインにおける形式や形状が、それを取り巻くメディア、構造、環境、制度といった「フォーマット」によって大きく規定されるという考えを象徴している。

実際、デフォルト主義者はフォーマットに従うことで、その効率性と限界を批評する。一方、アグリーデザインはフォーマットに反抗することで、その存在自体を批判的に問い直す。そしてヴァナキュラーは、フォーマットの外部あるいは代替的な視点を提示し、多様性やローカルな価値を再評価する役割を果たす。しかし、これらのいずれの立場を取ったとしても、その批評の背後には、デザインが抱える罪悪感や喪失感が影を落としている。

罪悪感、恐怖、喪失感、野心。テクノロジーと人間の関係は、単に操作的なことに限らずさまざまな感情と結びついている。デザイナーは技術の終焉や新しい知識の誕生に一喜一憂する。この領域は不透明であり、スキルの解体─つまり特定のスキルの相対的な縮小や価値の引き下げといったリスクがないわけではない。

(p.210)

フォーマットは、単なるコンピュータのファイル形式にとどまらない。現代のデザインにおける形態は、インターフェイスのテンプレートや自動化ツールを通じて、その技術的・文化的・社会的なフォーマット(枠組み)に大きく依存している。デザインの(半)自動化を可能にするプログラミングは、効率性を向上させる一方で、個々のデザインの独自性やプロフェッショナリズムを希薄化する側面も持ち合わせている。

コーディングは数多くの「21世紀的スキル」のなかの一つというだけではない。グラフィックデザインのような職業全般を自動化すべきと言われるなかで、コーディングは権威と専門家としての威信をかけた戦いの場なのだ。

(p.195)

デザイン教育への挑発

続いてロルッソは、デザインの現実を形成する基盤としてのデザイン教育のフォーマット、すなわち「学校」と「教育」に焦点を当てる。

一般的に学校とは、仕事の世界の混沌とした乱暴さから守られた空間と考えられる。従来は、労働を背景にした活動的生 (vita activa) の領域とは対照となる、特権的な観想的生 (vita contemplativa) の場とみなされていた。

(p.256)

デザイン学校は社会の縮図として、現実の労働市場や社会的課題に対応する準備を学生に提供する役割を担う一方、過剰な理想主義に基づくカリキュラムが、学生の幻滅を助長している。さらに、教育の商業化や、学生が「自己デザイン」を強いられる風潮は、個人のアイデンティティ形成を市場価値と結びつける、自己搾取の構造を生み出している。学生は自らの創造性を経済的な要求に従属させざるを得ない状況に追い込まれている。

「あなたらしさ」と呼ぶ自己は、単に専門スキルとともに成長するのではなく、「自己そのものがスキルになった」のである。

(p.238)

評価や宣伝のために、人生の物語を単純で表面的なプロジェクトや活動として扱うことを避けるべきである。

(p.240)

職業化されたアイデンティティは、その形式化、つまり官僚主義化によって資本に換えられる。

(p.241)

注:今日のデザイン教育の問題については、トニー・フライも「Design after design」(Article in Design Philosophy Papers, July 2017)という小論の中で、鋭く批判していた。

ロルッソは最近、教育専門誌『Raise Your Voice』に「A School Knows No Stopwatch(学校にストップウォッチはいらない)」というエッセイを寄稿した。このエッセイは、現代のデザイン教育における「余暇(leisure)」の欠如を批判的に論じたもので、時間的余裕こそが重要な議論や学生の深い悩みを掘り下げるための基盤であることを強調する。ロルッソは、デザイン教育の場はゆったりとした環境であるべきで、さもなければ学校は工場になってしまうと警鐘を鳴らす。


デザイン教育は、企業などとのコラボレーションを通じて「現実世界の縮図」としての役割を果たすべきだとされている。しかし実際には、労働市場に直結した実践的スキルと批判的思考のバランスを取ることに苦慮している。特に、スポンサーである企業に対して学生が批判的または否定的な意見を示すことは、ほとんど許されていない。ロルッソは、理想化されたデザイン観を教えるだけでなく、学生を現実の状況に備えさせる必要があると主張する。この挑発は、デザイン学校の役割と教育方針を根本から再考する契機を与える。

学生も教員も、学校を唯物論者あるいは理想主義者のレンズを通してとらえている。唯物論者が重点を置くのは、将来の雇用やスキル、市場のニーズといった実際面である。一方で理想主義者は悲観的な者と楽観的な者に分かれる。悲観的な理想主義者は、学校は規律と抑圧の場であると主張し、教育が労働市場に服従していることを嘆く。(中略)楽観主義者の考えによると学校とは、批判的思考を働かせ、なじみ深い先入観を捨てることによって自由がもたらされる空間だという。

(p.259)

ロルッソは、デザイン業界が抱える構造的な問題にも鋭く切り込む。多くのデザイナーが低賃金や長時間労働、自己搾取に苦しみ、業界全体が不平等や格差によって支配されている現状を批判的に分析している。特に、女性やマイノリティがデザイン業界で直面する課題についての議論は、本書の重要なテーマの一つである。デザインが単なる創造的な活動にとどまらず、より広範な社会的・経済的構造の一部として機能していることが浮き彫りにされる。

自己デザインが「近代の重要な事実のひとつ」であり、従来的な環境とは異なる環境に身を置くすべての人々にとって、チャンスでもあり呪いでもあることだ。

(pp.265−267)

最近のミーム形式を見ると、仕事や趣味、あるいは病状でさえも「個性 (パーソナリティ) ではない」ことを思い知らされる。多くの文化的文脈では、アイデンティティと個性が混同される。アイデンティティに関わる政治的パフォーマンスは、承認や機会の均等などを唱えるためのツールになりうるもの、いわば戦略的本質主義の一形態である。しかし同時に、個性の存在感が増していることは、自己の「サンプリング」というポストモダン現象の究極の帰結と見ることもできる。

(p.237)

多くのデザイナーが自己実現やキャリアアップを求めて過度な労働を引き受ける一方で、その見返りが不十分であるという状況は、デザインという職業が抱える「クリエイティブな理想」と「現実的な制約」の間に存在するギャップを鮮明にする。

アートやデザインの学校の自己デザインに対する考え方は、ずれている。その時代遅れの理想を接ぎ合わせているのは自律性という概念だ。それは、浮世離れしていることや、自分のスキルの社会的必要性に対する自己確信、問題解決への道のりを制限する文脈における批判的な位置づけの変更、現在ひいては歴史からの断絶などさまざまな形で現れる。

(p.291)

デザインの未来と希望

以上のように、本書はデザイン・ミームを巧みに散りばめながら、「幻滅としてのデザイン」「デザインとカオスの共存」「デザインの日常性」「デザインの自律性」「デザインの労働環境と自己搾取」「デザイン教育と現実世界としての学校」といったテーマを批判的に掘り下げ、再検討してきた。その中で、デザイン分野に漂う幻想に焦点を当て、それが普通のデザイナーの仕事や自己認識にどのような影響を与えるのかを、多くのミームと膨大な参考文献を通じて描き出してきた。

本文だけでなく、脚注として添えられた膨大な(むしろ「圧倒的」と言うべきかもしれない)引用やエピグラフの一つひとつを検証するだけでも、著者の意図を超えた新たな思考の広がりが期待できるだろう。しかし、その先に待つ結末は、エピローグのタイトルにある「レイジクイット(キレ落ち:オンライン対戦ゲームなどで怒りに任せて回線を切ること)」しかないのだろうか?

もちろん、この本は読み手を元気づけるハッピーエンドや、疑念を和らげるような安易な結末を提示してはいない。しかし、

期待に応えるための中途半端な代案を提案するのではなく、今日では冷笑主義と同等の扱いを受けている純粋な批評を擁護したいと思う。

(p.296)

とあるように、代替案についての「議論」が不十分であることと、代替案そのものが欠如していることは、決して同じではない。

建設的部分を擁護する者たちは、変化を直線的で機械的なもの、つまり本が解決策を提示し、それを読者が実行するものだと考える。そう捉えるならば、解決策や提案、あるいは「打開策」のない本は、不完全で不自由な本ということになる。しかし、批評自体は何も生み出さないことに加え、事例研究のほうが分析よりも「現実的」だと主張するのは誤解を招きやすい。昨今のデザイン文学に決定的に欠けているのは、デザイン的な楽観主義の外に自らを位置づける論考である。

(p.297)

デザイン業界に欠けているもの― それは語られることのない悲劇である。他人の悲劇を描く超大作のようなベタなものではなく (これはもう見飽きてしまっている) 、日常生活の悲惨さから来る、生きた悲劇だ。この悲劇はまだ十分に語られていない。

(p.297)

世界において本とはどのような役割を果たすものなのか? 「悲劇から抜け出す唯一の方法は、“状態を変える”ことである」とイアコネッシは書いている。本が真に機能するのは、読者を変えることができたときだ。エミール・シオランやアルバート・カラコといった作家による最も非建設的な本でさえ読者を変えることができる。つまり、デザインの分野で埋められるべきギャップとは、私たちがもともと悲観主義者ではなかったという点なのだ。

(p.298)

ロルッソの希望は、こうした試みが(デザイナー自身を幻滅させる能力も含めて)デザイナーが持つ真の自律性の一部を示してくれることにある。そして彼は、デザイナーがブリコルールとして振る舞うことを提唱する。

デザイナーは形式化する一方で、その形式化を一時的な取り決めとして見なければならない。ここでもまた、彼らは「ブリコラージュする人 (ブリコルール) 」として立ち振る舞うべきなのだ。『それほど単純な話ではない』と主張する頑固な複雑化論者に対し、慎重な単純化論者の言い分はこうだ―「その通りだ。複雑さが単純化されることもあれば、単純さが複雑になることもある」。

(p.301)

スマート文化と貢献文化

エピローグでロルッソが挑発するのは、新しいアイデアやコンセプトを重視する「スマート文化」に根ざしたデザインから、既存のものを維持・発展させる「貢献文化」への転換、すなわちブリコラージュ文化へのシフトである。デザインを環境に埋め戻すことは、デザインを特定の個人や目的に奉仕するものとしてではなく、社会全体を支えるインフラとして再定義することに他ならない。デザインの教育機関は、学生がこうしたデザインの複雑な力学を理解し、主体性や対象と環境との関係性を深く考察できるようなカリキュラムを提供する必要がある。

結局のところ、デザインとは現実、つまり過去に対する妥協であり、ひいては未来に対する交渉なのだ。デザインという行為は、自己妥協であると同時に物事に対する妥協でもある。デザインは現実を蝕み、現実はデザインを危うくする。

(p.302−303)

私が本書で試みたのは、社会学的想像力の焦点をデザインの社会的環境に向けることであった。

(p.304)

社会学的想像力とは、社会学者のC.ライト・ミルズが「人間と社会、プロフィールと歴史、自己と世界の相互作用」と定義した、個人と社会を結びつける能力を指す。この想像力は、個人的な問題をより広範な社会構造や歴史的な文脈の中で捉え直し、理解することを可能にする。その核心は、「問題を避けて通らず」、むしろそれに正面から向き合う姿勢を養うことにある。

デザイン分野は、問題を避けて通るべきではない。代わりに、機能的な問題、倫理的な問題、方法論の問題、アクセスとインクルージョンの問題など、独自の問題や関心事を常に再定義する必要がある。どうしても「複雑さ (complexity) 」を扱わざるを得ないが、それを総合的に解決しようとはしない。専門的な知識と特定の活動を通じて、「複雑さ」の (邪神クトゥルフのような) 恐ろしい外見に惑わされることなく、それに目を向けることになるだろう。

(p.309)

そうすることできっと、肯定と批判、寛大さと懐疑、信頼と否定が交差する中間領域にとどまることができる。私たちが目指すべきは、単なる肯定的デザインでも批判的デザインでもない。幻滅と挑発、妥協と矛盾、そして中庸のバランスをすべて抱え込むことのできる、別の「第三のデザイン」である。

デザインは本来、格式に捉われないべきだが、格式ばらないさまを崇拝したり、それに執着してはならない。人格についての規範性には抵抗し、有害な行動から人々を守るべきである。また、社会的、文化的、経済的資本の流れに注意深くあるべきだ。つまり、引用、著作権、報酬には寛大である一方で、経営者やクリエイティブ・ディレクターに対しては懐疑的な態度で臨み、内面的な質による区別には否定的であるべきということだ。この分野が必要とする仕事のすべては不可欠で相互依存的であり、賢さや才能や虚勢よりも、努力や助け合いや相互性によって評価される。専門性を信じつつも、専門家を崇拝してはならない。人々が役割と目的を持ち、それを再交渉できるような、活動に基づく帰属意識を提供すべきである。そうなれば、経歴や文化の違いは理解されながらも必要な場合にだけ前面に出されることになり、デザイナーは穏やかに自我を忘れることができるのだ。

(p.310)

そして最後に、ロルッソは自身の世代のデザイナーを形作ってきた「スマート文化」と、これから目指すべき「貢献文化」という、相反する2つの価値観を提示しながら、次のように締めくくる。ヨーグルトと玉ねぎしかなければ、食材や調理法をみなで融通、共有し合えばいい。

大衆向けのアピールを重視しているスマート文化―その不名誉な影の部分に踏み込むことが、デザインへの幻滅の探求なのだ。本書は、誰かが別の場所で一緒になってその影を消してくれることへの願いを託し、その影の輪郭を書き示している。

(p.311)

以上、駆け足ながら『デザインにできないこと』の内容とそのポイントを、本文の引用をミームのように散りばめながら概観してきた。本書は、従来のデザイン書籍で繰り返し語られてきた「問題発見」や「問題解決」、さらには「デザインの可能性の称賛」や「デザインによる社会批判」といったスマート文化的な定型表現には一切寄り添うことなく、デザインそのものやデザイナー自身が直面する限界、課題、矛盾に焦点を当ててきた。

もちろん、既存のデザインの罠に陥らないよう配慮するあまり、一貫したストーリーラインがやや不明瞭で、章ごとの議論とそのつながりが散漫に感じられる部分もあるかもしれない。また、本書は存在論的相互依存性や批判理論など、デザインや文化批評に一定の知識を持つ読者を想定しているため、背景知識がない場合には難解に感じられることもある(最後に約500点もの参考文献が示されている)。個人的には、ヴァナキュラーに対する非西欧的視点や、アグリーデザインからグリッチやエラーへの展開、さらにはコーディング技術やその文化に関する、さらなる掘り下げが欲しかったようにも思う。

しかし、こうした点を差し引いても、この本がデザインを批評的に再評価し、現代の課題を鋭く指摘する比類なき一冊であることに変わりはない。ユーモアやミームを活用した親しみやすいアプローチ、幅広いテーマ、そして身近であるからこそユニークな視点は、従来のデザイン書籍にはない洞察を読者に与えてくれる。何より重要なことは、ロルッソの指摘が非常に厳しいものでありながら、それが怒りや諦めではなく、デザインに対する真摯な姿勢に貫かれている点だ。彼はデザインへの希望を決して捨てていない。

何よりも、この本のタイトルである「デザインにできないこと」を各デザイナーが考えること自体が重要である。デザインの限界を知ることで初めて、その可能性が浮き彫りになる。「デザインができないこと」を明示できれば、それは「デザインができること」を明確にし、その本質——すなわち「デザインそのものの価値は何か」「デザインにしかできないことは何か」という問いへの答えに近づくことができる。それは同時に、「デザインは職業として何ができるのか」「デザインが今やるべきことは何か」という問いの答えにも繋がっていく。

幻滅が蔓延したデザインを、もう一度信じられるものにするためには、現在のデザインの中から除外、あるいは消去しなければならないものごとがたくさんある。しかし、それによってデザインそのものが消えるわけではない。デザインは本質的に反復不可能な営みであり、そこに「一般」や「普遍」は存在しない。だからこそ、まずは既にあるものを寄せ集め、自らの手で形を作り上げるブリコラージュによる貢献文化を実践してみるべきだ。結局のところ、デザインは常に一回性の行為であり、「する」ことそのもの内にこそ価値があるのだから。

久保田晃弘
多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授


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