試し読み:『デザインにできないこと』
2024年11月発売の新刊『デザインにできないこと』(シルビオ・ロルッソ著)より、第2章「すべてのものと人が一緒に(エブリシング・エブリワン・オール・アット・ワンス):デザイン・パニズム」から、ふたつの項「デザインがまとわりつく」「オレンジとエンドウマメとバラ」を紹介します(この章のタイトルはカオスなSFアクション映画『Everything Everywhere All At Once』から付けられているようです)。
社会が求めるヒーローのようにもてはやされ、人口に膾炙し、あっという間にその技術さえ解体され、みんなのものになってしまった「デザイン」。
本書ではデザイナーがうすうす感じている「幻滅」と恐れず対峙しますが、幻滅とは、そもそも期待をもたらす幻想──デザイン界に影響を及ぼしながらそれを形作った、熱意の大きなうねりの残渣です。
デザインがまとわりつく
よく耳にする「誰もがデザイナー」「すべてのものがデザイン」という二つの主張は、デザインについての現在の見解を特徴づけるものだ。この包括的なデザイン観は「デザイン・パニズム(design panism)」(あまねくデザイン、汎デザイン)と呼ぶことができ、そのような背景において、デザイナーは自分の役割や立場を(苦しみつつ)打ち出すこととなる。しかし、デザイン・パニズムは現実を明確に示しているというわけではなく、解釈のための枠組みで大げさとも言える手段であり、その曖昧な拡大については議論すべき課題である。このよくある二つの主張の相反する意味をかみ砕くことで、デザイナーのアイデンティティや実感への影響を見極められるようになる。
そう遠くない昔、デザインの範疇を区切るのは簡単だった。コーヒーを淹れるための大量生産されたモカポットは紛れもなく「デザイン」だったが、そのコーヒーを飲むための手作りの陶器カップは「デザイン」ではなかった。当時のデザインとは工場で始まり工場で終わるもの、すなわちインダストリアルデザイン(工業デザイン)だった。今日のデザインはもっと複雑である。工場の製造ラインを飛び出して精神的なものとなった。いわば私たちの精神が工業化されたということだ。身近にあるわずかな手作りのモノが醸し出している気品は、デザインによるものである。デザインが「取り憑いている」のだ。
どんなものであれ、私たちが作るものや出会うもの──モノ自体、モノの配置、モノを配置するプロセス──にはデザインがつきまとう。たとえデザインがそこになくても、すでにそこにあるのだ。したがって、デザインの存在論的な位置づけは幽霊のようなものだ。ブルース・マウとジェニファー・レオナルドが言うように、「多くの人々にとってデザインは目に見えない。失敗するまでは」。だがデザインは風変わりな幽霊で、生者の目に見えることを求めている。デザインは、映画『ゴーストバスターズ』に登場する、いくらでも喜んで食べ続ける大食漢のゴースト「スライマー」のようなものだ。
スライマーは形跡を残さずに物質世界に関わるわけではなく、現れた場所にスライムを残していく。このゼリー状の分泌物は、デザインについて言えば、物事を再認識する能力として解釈できる。この能力をもってすれば、小石は突如として形と機能を持つことになり、改良というプロセスがもたらされがちである。そしてそのプロセス自体が方法ということになる。ここで起こっているのは、デザインによるモノの消化だ。小石は人工物と化し、デザインされたモノとなった。ブルーノ・ラトゥールが注目した、「拡張(extension)」(適用される製品の類型)と「包含(comprehension)」(デザインが含みうるモノの部分)によって広がった、「デザイン」という用語の「類まれな経歴」の極端な段階である。
しかし、デザインはさらに代謝を進め、シンボリックで儀式的な雰囲気やその文化など、デザインが処理しきれなかったものにも、ねばついた跡を残した。それらは独自の均一化したシンボルと儀式とともに、デザイン文化に取って代わられたのである。一見すると同じもののようだが、実のところまったく違うものとなった。
オレンジとエンドウマメとバラ
1963年、イタリアのデザイン界の大家ブルーノ・ムナーリは遊び心をもって、オレンジ、エンドウマメ、バラをまるで工業的なモノのように説明している。オレンジを「ほぼ完璧なモノ」と評した一方、バラはまったくの役立たずで複雑であるとみなした。デザイン思考における一種の教訓であり、おそらくは大量生産への鋭い批判であったムナーリの無邪気な遊び心は、デザインという視点から現実をとらえなおし、さらには現実を変える実質的な方法をも例示している。こういった再解釈に触れると、それ以外の考え方、すなわち機能や効率を超えて考えることが非常に難しくなる。
このような考え方が整えば、デザイナーがすべてを取り仕切ることもありえる。デザイン・キュレーターのパオラ・アントネッリによれば、デザイナーは「礼儀正しく、好奇心が旺盛で、寛大で、他分野の知識やノウハウに飢えており、植民地化することなく侵攻する。これ以上に信頼のおける者が他にあるだろうか? デザイナーが世界を動かすべきだ」。しかし一方で、社会学者ルハ・ベンジャミンは異議を唱えるだろう。あるワークショップでデザインの定義を問われたベンジャミンは、「デザインは植民地化のプロジェクト」であると述べた。その意味するところは、デザインがあらゆるものの「説明(description)」に使われる、ということだ。説明とはまさに、デザインのスライムによる消化作用がとる形である。
ポール・ロジャースとクレイグ・ブレムナーが力説するように、「デザインは製品でもサービスでもない。デザインはすべての人やものとの関係のあいだに生じる。関係性を説明し、形成するものだ」。デザインは形式化を通して進んでいく。ベンジャミンは最も成功しているデザイン・トレンドであるデザイン思考に着目し、デザインの力を指摘している。(「デザイン(design)」の語源について、もともとは「区切る、限界を定める」という意味のラテン語「desi gnare 」という説もある一方で)デザインはいまや、抗議団体から銀行アプリのユーザー・ジャーニーまで、ありとあらゆる形態の活動におよんでいる。彼女にとっての問題は、デザイン思考が一般的なデザインと同様に忘れっぽいこと、つまり歴史を顧みないことである。
ルハ・ベンジャミンは、デザイン思考にまつわる一連のリスクを指摘する。デザイン思考は「包括的な哲学(umbrella philosophy)」であり、広範な人間活動の形態を損ない、そういった活動が出てきたそもそもの系譜を消し去るとともに伝統を消失させる。これは覇権の問題であり、「デザインが、たとえ人間活動の植民地化を目指していないとしても、クリエイティブな思考や実践を独り占めしていることは確かだ」。彼女の懸念は、とりわけ人種問題に関わっている。この観点から、デザインがエンパワーメントを枯渇させてしまうだろうと感じとったのだ。「私たちが求めるべきは、解放された『デザイン』ではなく、昔ながらの単純な解放なのかもしれない。おそらく『レトロすぎる』くらいの」。
「スライマー」ことデザインは、何を引き連れどこへ向かうのか。デザインに関わる者なら身につまされる本書ですが、さまざまな言説を照らし合わせてイリュージョンを解いていくことで、純粋なデザインに触れることができるかもしれません。
興味を持たれた方は、ぜひ手に取ってみてください。
Amazonページはこちら。電子版(リフロー形式)も、準備が出来次第、配信開始予定です。