願掛けのお話
願掛け
髪を伸ばしている。
小中高と、校則がありそれを守ること、部活の時に邪魔にならないように機能性を重視した結果、漠然と髪を伸ばしていた。
大学。髪型を自由にできると気が付いたとき、胸の下まであった髪を切った。
ベリーショートまではいかないが、とても短くなった。
「髪を切ってもいい」
当然だと思うだろう。
でも、私にとっては大きな発見だった。
誰にうかがうでもなく、何に縛られるでもなく、自由であることを許されたような気がした。
そこから髪型をたくさん変えた。
髪も染めたし、さすがにやらないだろうと思っていた全頭ブリーチもした。
ロング、ボブ、ショート、前髪有り無し、いろいろやってきて、この一年はウルフカットに落ち着いている。
なんとなく、これが似合うとしっくり来た。
そして今、髪を伸ばしている。
長い髪は面倒くさい。
何せ、この数年は肩につくかつかないかの長さで生活していた。
最近肩の下まで伸びてきた襟足たちが、多少鬱陶しくないこともない。
シャンプーの減りも早い。
ブリーチをしているので、毛先は傷んでいるし、そのケアにヘアオイルもミルクも必要。ちょっとずつ高くつく出費に、まあお財布が痛いなと思うときもある。
(特にシャンプーやヘアオイルが同時に切れた時、しばらくオイルを我慢するしかない。あれは高いのだ。)
それでも髪を伸ばす。
私は、髪を切るために髪を伸ばす。
自由を認識するために髪を切る。
変だと思うだろうか。
日本において、古くから、髪を伸ばす、髪を切るという行為は、さまざまな意味を持っている。
「髪には神が宿っている」という考えの下、平安時代貴族に見初められるには黒々とした長い髪が必要だったし、逆に仏教の中には「煩悩の象徴」と考える宗派もあり、そこでは煩悩と自分を切り離すために剃髪をする。
いまも、「失恋したから髪を切る」ことは、特に女性にとってメジャーなジンクスだと思う。
私も例にもれず失恋したら髪を切る派だし、人生の区切りにも髪を切る。
大学院進学という、人生の区切りが迫っているから、髪を切りたいのだ。
(進学できるかまだ分からないが。)
人生の区切りに、自分の選択とその選択の自由を再度認識したい。
なんで大学院に行くんだ、と、周りからはよく言われる。
向いてないだろ、と直球で伝えられることもある。
苦しそうにするくらいならやめろ、とも言われる。
向いていることをしないといけないのか。
向いていないことは選んではいけないのか。
向いていないから挑んでいるのではないか。
挑む中で苦しむことは許されないのか。
私は自由なはずだ。
好きな髪形を選べるように、好きな生き方を選んでもいいはずだ。
一般には、願掛けをするときは髪を伸ばすという。
私は、髪を切るときに願掛けをする。
古い細胞どもを切り離し、自由でいられるようにと願う。
髪を、伸ばす。