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努力、運、願い

 なんと、2日連続でnote更新。このまま永続的に更新できるように頑張りますが、その結果は神のみぞ知るセカイ。

 神で思い出したんだけど、今日は出雲大社東京分祠に行ってきた。人が出歩くのには不適な気温になることが見込まれたため、午前中に行って、昼過ぎには帰宅してた。午前中でも十分暑かったが。

 大人になって、神社にいくことがちょっと好きになっている。2年前は出雲大社に行ったし、今年の5月には四柱神社にも行っている。なぜ好きなのかは、まだ言語化できないが、言語化できない「好き」を楽しむ初期状態の期間は貴重だとも思う。

 今回はちょっと願い事があったのと、単純に神社を感じたかったので、ふと思い立っていったわけです。ストレス解消、そしてエネルギーが供給されたように思う。願うことで根拠のない自信をもち、根拠のない自信をもつことで、その後の行動をとるにあたって大きな原動力になる。そういう意味でのエネルギーである。

 20歳以下のときは、「自分の願いを叶えるには、己個人の努力がすべて」という感覚で生きていた。願掛けする暇があったら、目標達成に向けて現実的な歩を進める方がよっぽどいいというスタンスである。たとえば、受験勉強だったら神社にいくのではなく、自室や自習室で1問でも多く問題を解くとか、そんな感じ。

 とはいえ、25歳8ヶ月くらい生きてくると、自分の努力だけじゃ叶わない願いもたくさんあるよね、という考えに辿り着いた。もちろん、これは努力がいらないと言っているわけではなく、努力も運も両方必要な願いもある、ということである。

 願いには「①努力だけで叶う」「②運だけで叶う」「③努力と運の両方が揃って叶う」の3パターンがあるのではないか。

 ①の願いは資格試験なんかが当てはまるように思う。「〇〇点以上で合格」のような普遍的な基準が明確に設けられているからだ。今年の5月にFP3級の試験を受かった時に、まさにそんな感覚を受けた(60点以上をとれば合格になる)。

 ②に関しては、具体例が思いつかない。宝くじなんかを考えてみたけど、「宝くじを買う」という努力をしているので、努力を完全に排除して成立する願いは考えにくい。なにか適切な例があればご教示いただきたいです。

 ③については、たとえばスポーツなんかはそうだと思う。僕は野球が好きだが、「試合に勝ちたい」という願望があるとして、自分がどれだけイメージ通りのプレーができても、相手がそれを上回ってきたら、試合には負けることになる。

 僕も含め、世の中の人たちはみんな多かれ少なかれ願いがあると思うが、それぞれの願いを叶えるために必要な「努力:運」という比率と「努力+運」の絶対量を考えて、必要な努力を実行していくのが大切なのだと思う。

 だから、今回は自分の願いが少しでも叶えられるように、神社でお願いをしてきたわけだけど、得られた効果は

①今後の努力を継続するためのエネルギー確保(「願ったから、あとは自分自身が頑張るだけ」というメンタリティで、集中すべきことに集中できる)

②来たるべきチャンスを見逃さないでちゃんと拾っていくためのセンサ感度の向上(願ったという体験によって、願いを継続的に意識でき、願い成就に直結するような機会を見つけられるようになる)

といったところでしょうか。もちろんこれは、他者にオススメしたいとかそういうつもりで書いているわけではない。ただ、今の僕には必要だった、ということである。

 ちなみに、僕は「①努力だけで叶う願い」も「③努力と運の両方が揃って叶う願い」も、どちらも叶えば嬉しいと感じる。要するに、どんな願いも願いであることに変わりはなく、じゃあ自分のその願いを叶えるためになにをすればいいのかをきちんと考えることが大事、ということ。

 さて、今ある願いがちゃんと叶えられるよう、頑張りましょうかね。今日は寝るけど、これは明日頑張るために必要なこと!

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