『見ることの重奏』と歴史的重層
恵比寿ガーデンプレイスに行く途中、やたら子どもたちがたくさんいる。そしてなぜか私と同じように東京都写真美術館に向かっていく。なんと10月1日は東京都民の日ということで入館料無料、子どもたちは写真美術館の地下一階の「いわいとしお╳東京都写真美術館 光と動きの100かいだてのいえ」が目的だったようなのだ。あまりに混み合って入場制限もかかっていたので、もうすぐ終わってしまう3Fの『見ることの重奏』のみを見て帰ることにした。
『見ることの重奏』は、東京都写真美術館が収蔵する37,000点の作品から、テーマを決めて定期的に展示する、いわば一般の美術館での常設展に代わるものだ。今回は、写真における「見る」ということの重層性をテーマにまとめられた。
写真における「見る」は、まずは作家によって写真の対象を「見る」というところが出発点となる。しかし、その時点ですでに「見る」は重層的だ。たとえばウジェーヌ・アジェのパリの街並みを撮影した作品群は、画家たちの材料として撮影されたものである。街の風景をスケッチするのに、アジェの写真を参考にしたのだ。とすると、アジェの写真は、そこに画家の視線が織り込まれていることになる。実際、そこにはアジェの、エゴをできるだけ出さないようにする禁欲的な視線が見て取られる。しかし、画家の視線に奉仕しようとすればするほど、かえってアジェの、アジェらしさが浮かび上がってくる不思議な写真群でもある。
このアジェの写真が入口に並べられ、そして出口には山崎博の作品が掲示されている。1857年生のアジェと1946年生の山崎とは、百年近く時代を隔てているが、このふたつには、不思議な共鳴関係がある。山崎は、「写真がコンセプトに従属せず、コンセプトは写真に奉仕する」といい、たとえば水平線や自宅の窓のような枠組みを設定して写真を撮った。このとき、「水平線」や「自宅の窓」といったコンセプトは、山崎にとって、あくまで写真を撮るための装置であり、このコンセプトのために写真を撮るのではなかった。
アジェもまた、「画家が絵を描くために」というコンセプトを装置としてパリを切り取った。写真史の初期と現代との不思議な連関。芸術の一分野として認められたのが、1978年にニューヨーク近代美術館で行われた「鏡と窓」展だといわれているが、そこからさらに50年近く経ち、写真芸術が歴史性を獲得しつつあることを改めて確認する展示でもあった。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授