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能における縁と、久々の再会

毎日この文章を書いているメリットは何、と聞かれたときに答えているもののひとつが、今日の出来事だった。かつて仕事をご一緒させていただいていた方からお食事のお誘いを受けたのだが、こうして書いている記事についてやりとりがきっかけだった。「こんなふうに、こ゚縁がつながるよ」というのが、文章を書き続けることの、大きなメリットだ。しかも、今日のその食事は、本当に楽しく、心震えるような時間だった。

この食事会の前には、能のお稽古に行っていた。オンラインで学んでいるメンバーが、初めて東京の稽古場でお稽古するということもあって、そのアテンドをしつつ、自分の舞囃子の『山姥』のお稽古をつけていただいた。以前の記事でも書いたが、山姥は山の神の現れのひとつであり、客人(まれびと)としての翁にも比するような存在である。いわば、裏・翁ともいえる存在だ。その山姥が山々を巡る舞囃子を舞いながら、山姥の感情を身体的に刻み込もうとした。

能は形から入る。長い間受け継がれてきたこの形を、「型」と呼ぶ。日本の伝統芸能は常に、この「型」が重視される。演劇のスタニスラフスキー・システムは、役を生きるをコンセプトに、感情を作り込むことで演技を作り上げていく。演技をする背景となる内的動機を探索するのである。一方、能はそうではない。感情よりもさきに、形をつくっていく。そこに、私たちの感情が生まれてくるというのだ。身体から生まれる感情は、むしろ潜在意識によるものであり、本物のように思える。それが、私の実感だ。

さて、その『山姥』の舞囃子で、こんな一節がある。「一樹の陰、一河の流れ。皆これ他生の縁ぞかし」。一樹の陰に宿り、一河の流れを汲むのも皆これ他生の縁であろう、という意味だ。科学的に見れば、まったくの偶然である遭遇を、能では常に、自分の人生を超えた、他生の縁として捉える。室町の、おそらく現代よりはずっと死が身近にあった時代の、リアリティある人生観について、私自身の身体と声によって、再現する。感情はそのあとに生まれてくる。

数年ぶりにお会いする方との、仕事ではない場面での会食。この数年間、お互いに別々の山を巡ってきた。そのなかで、再びこのタイミングで邂逅することの意味について、考えざるを得なかった。山姥が山を巡るのは、輪廻を象徴している。その輪廻は実際、私たちの人生を今なお、彩る重要な要素だ。

山姥 お暇を申して、帰る山は
地  春に梢に花がいつ咲くかと待ちわび、
山姥 花を尋ねて山廻り
地  秋は清かな輝きを尋ねて
山姥 月の見えるところへと山廻り
地  冬は冴えゆく冷たい時雨の雲の
山姥 雪を誘って山廻り

(現代語訳 https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_046.html)

廻り廻ってゆく時間。かつてお会いしていたときは、また雰囲気も変わって、懐かしさとともに新鮮さを感じた。そうした縁を、室町の時代を経由して、(そして、ときに話題にあがった京都という場所を経由して)、味わう時間だった。

ここで問題です。今日は、誰と会ったでしょうか(関係者向け)。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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