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世界を内在化させる

もう少し暗黙知について紹介していこう。ポランニーは、暗黙知を近位項と遠位項にわけ、そこに近位項から遠位項へという指向性を見出した。遠位項へと注意を向けることによって、手元にあるさまざまな情報がつながり、近位項として意味をなしていく。

さらにポランニーはここで、こうした近位項として機能させる手段として、内在化(dwell-in)を重視する。ポランニーの言葉を引いてみよう。

事物が統合されて生起する「意味」を私たちが理解するのは、 当の事物を見るからではなく、その中に内在化するから、すなわち事物を内面化するからなのだ。

マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(ちくま文芸文庫) pp.40-41

サッカーの試合を、外から観戦しているのと、自らピッチ上に立って試合をしているのとでは、まったく認識が異なることは、想像に難くない。動き回るボールやプレイヤーたちの変化をリアルタイムに感じ取りながら、自分自身が適切に動いていく。そこにはサッカープレイヤーとしてのインテリジェンスが問われる。優れたプレイヤーは、ピッチの特定の場所にいながら、フィールド全体を、遠位項として把握する。

一方、観客席で観戦する分には、そうした即興的な対応は求められない。同じゲームでも、その認識はまったく異なる。まるで違う世界にいるかのようだろう。

暗黙知を起動させるには、要はサッカーのピッチに立って、問題そのものになり、問題を自らの身体に内在化させる必要がある。その点で、他責の人には暗黙知はやってこない。「◯◯さんが悪い」「景気のせい」「競合が参入するとは知らなかった」等、問題を外部においたままにして、問題解決の糸口を発見するような暗黙の知のはたらきは起こらない。

ここまでの他責でなくても、「◯◯がわからないから判断できない」とか「競合の動きが予測できないから、なんともいえない」とか、「顧客のニーズは顧客に聞かないとわからない」とか、そうした会話は普通にかわされるし、そこに違和感もないだろう。わからないものはわからない。

ところが、たとえばあらゆる問題を自分のものとして内在化させると、たとえばまったく自分の責任ではない天気の問題や地震などの天災、社会情勢なども自分のものとして引き受けると、まったく様子は変わってくる。こうした不確実な要素にも、暗黙の知がはたらきはじめ、いわゆる「虫の知らせ」を感じられるようになる。

言ってみれば、世界全体を内在化させるということである。世界を内在化させた身体は、世界のできごととつながることになる。ポランニーの盲人の杖のたとえではないが、手元の感触から、世界で起こるできごとが感じ取れるようになる。

私が問題そのものである。そこから暗黙知はスタートする。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

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