正濱漁港がつなぐ日本と台湾
https://note.com/bmia/n/n481b42e8dba6
https://note.com/bmia/n/n8f55d782a82f
正濱漁港は複雑な歴史を背景に持っている。台湾北部の要衝であるこの地域は、実際には日本統治時代に開発が進んだ。1929年に「台湾総督府水産試験場」が設立され、正濱漁港(当時は「基隆漁港」と呼ばれていた)の建設が開始される。1934年には、市場や倉庫、無線局などが整備された近代的な漁港が誕生した。
日本統治時代というのは、両義的だ。たとえば1928年に台北帝国大学が設立され、現在の国立台湾大学へと引き継がれていくが、台湾にとって日本統治は、そうした近代化も意味していた。正濱漁港もまた、そうした近代化の一つである。いわゆる、「植民地近代化論」である。
しかし、ここには当然、大きなジレンマがある。この近代化は植民地的近代化であって、また日本の帝国主義の影の部分を見逃すわけにはいかない。そこに台湾の自己決定権がどのように関わったのか、日本人が当時どのように台湾人を見ていたのか、などさまざまな問題が関係する。
たとえば、1903年の第5回内国勧業博覧会で披露された民間パビリオン「学術人類館」では、琉球民族やアイヌ、朝鮮民族、そして台湾の高山族などの生身の人間が「展示」された。そこには、「劣位にある周縁の人々を啓蒙しなければならない」という植民地主義的な意識が、露骨に現れている。
もちろん、これは西洋から日本に向けられたまなざしでもあった。日本もまたそうした立場に立たされていたし、植民地化の危機にも直面した。しかし日本はそのまなざしをそのまま、さらに別の民族へと再生産していたことはあきらかだ。当時の時代的背景は考慮すべきところではあるが、当時から人道的な問題が指摘され、実際、人間の展示は中止されている。
こうした他律的な発展のあり方をどう乗り越えるか、植民地支配の負の側面を強調するのが、「植民地収奪論」である。
多くの人が想像するように、この植民地近代化論と植民地収奪論は、学術的というよりも政治的、イデオロギー的な対立構図にすっぽり収まり、議論は長い間、袋小路に陥ってしまっていた。それを、別の角度から乗り越えようとするのが、2000年代に入って活発に議論されるようになった「植民地近代性論」であった。
植民地近代性論とは、国家や法制度、教育制度などの大きな枠組みではなく、植民地時代において人々が日常的に経験したことに着目する、言ってみれば文化人類学的なアプローチである。
正濱漁港の名物に、「吉古拉(チクラ)」というものがあるが、これは日本のちくわが語源であり、今では現地のソウルフードになっている。前回の記事でも紹介した漁網の技術も、日本からもたらされたものだ。イデオロギーのレベルとは別に、台湾の人々を主語とした日常生活が存在していたし、それは今につながっている。
正濱漁港の活性化を手掛ける林書豪氏は、瀬戸内国際芸術祭、とくにそこで行われていたアーティスト・イン・レジデンスをヒントに地域活性化を推し進めている。また、今年5月には台湾政府のプロジェクトの一環として、日本に訪れ、各地の地域活性化事例を学ばれている。私との縁もそこで生まれた。しかしこれを、「台湾が日本を学ぶ」という構図で捉えることは、当然、大きな問題をはらんでいる。私が、台湾の視察団のプレゼンテーションを見て感じたのは、日本こそ台湾から学ぶべきであるし、むしろ相互に刺激を与え合い一緒に取り組むべきことがたくさんあるのだということだった。
別の言い方をすれば、近代の自律か他律かという二元論ではなく、お互いに影響を与えあう自律と他律のあいだ、近藤和敬のいう異律の関係性を取り結んでいくべきだということだ。即興的で複雑なステップを踏みながら、日本と台湾の草の根のプロジェクトを進めていけたらと思っている。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
参考文献
「なぜ人間が展示されたのか かつて日本でも行われたこと」朝日新聞https://digital.asahi.com/articles/ASP2J5CTYP2GPTFC008.html
「植民地期をどう見るか」鄭 在貞 ソウル市立大学 名誉教授
http://www.cks.c.u-tokyo.ac.jp/event_back/kf_012/kf012.pdf
『人類史の歴史』近藤和敬、月曜社、2023年
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小山龍介のビジネスモデルノート
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