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写真芸術においてMoMAの果たした役割

ニューヨーク近代美術館(MoMA)は、写真芸術の進展に大きな役割を果たした。アレック・ソスに言及する中で、『New Documents』と『Color Photographs』に触れた。この記事では、もう少し包括的にMoMAの貢献を整理してみたい。

まず、MoMAは1937年に『Photography 1839-1937』、1938年にウォーカー・エヴァンズの個展『American Photographs』を開催、1940年には他の主要美術館に先駆けるかたちで、写真部門を設立している。1940年代といえば、第二次世界大戦のまっただなかであり、ドキュメンタリー写真が大きな影響を持った時代でもあった。

ロバート・キャパはすでに戦場カメラマンとして高い評価を得ていたし、アンリ・カルティエブレッソンも高い評価を得ていた。彼は戦死したという噂から、1946年にMoMAで回顧展が開かれた(が、もちろん生きていて、回顧展に本人も出席することになった)。

ロバート・キャパ《共和国軍兵士の死(崩れ落ちる兵士)》1936年


アンリ・カルティエ=ブレッソン《サン=ラザール駅裏》1932年

そのキャパとブレッソンらは1947年に「マグナム・フォト」を設立、アレック・ソスもその一員である。ブレッソンは、写真集『決定的瞬間(英題:The Decisive Moment、仏原題:Image à la sauvette』)を1952年に出版する。ちなみにこの写真集の原題は、「逃げ去る映像」という意味であり、「決定的瞬間」はやや意訳に近い。その後の写真において、「決定的瞬間を撮影したものが写真である」という呪縛が、ながらく写真家を悩ませた。

以降、あえて決定的瞬間を意識的にはずす、という取り組みもさまざまなされており、たとえば、杉本博司はその代表的作家のひとりだろう。古代人が見ていた風景を捉えようとする『海景』や、映画1本分の光を取り込んで撮影された『劇場』シリーズなど、ある一瞬を特権的に取り上げることを、周到に避けている。

杉本博司《タスマン海,ロッキー・ケープ》
杉本博司《Carpenter Center》1993

さて、MoMAが設立した写真部門が、その全精力をあげて取り組んだ一大展示が、1955年の『The Family of Man』であった。第二次世界大戦の終戦から10年というタイミングで行われたこの展示には、68カ国、273人の写真家による503枚の作品が展示されることになった。

The Family of Man展の展示の様子

さまざまな国から選ばれていることからもわかるように、世界中の人々を収めた、世界平和や人道主義的メッセージが込められた展示であった。写真の選定には3年の歳月がかけられ、先のキャパ、ブレッソンのような有名写真家だけでなく、無名写真家の作品も多く展示された。

この展示はその後、8年間にわたって世界中を巡回し、1000万人以上の観客を動員することになった。日本では、1956年に東京、大阪、名古屋、京都、岡山、広島、静岡を巡回し、日本だけで100万人を動員した。写真の中には、原爆の被害を撮影したものもあり、これは東京展の途中で撤去されたという記録が残っている。

アメリカのプロパガンダであるという批判もあったが、原爆写真など、アメリカの戦時中の行いに対する批判も取り上げられており、人道的メッセージが支配的であったという評価にもつながっている。2003年には、この展示がUNESCO世界記憶遺産にも登録され、歴史的価値が認められている。

この展示は、いわばフォトジャーナリズムのもつ力を最大限に発揮した展示である一方、この展示以降においては、「フォトジャーナリズム以降」の色合いが強くなっていく。それが、1967年の『New Documents』である。これは、ダイアン・アーバス、リー・フリードランダー、ゲイリー・ウィノグランドの作品を展示し、ニュードキュメンタリーの方向性を示した画期的な展示であった。

この展示のキュレーターは、ジョン・シャーコフスキーであった。1962年から1991年まで写真部門ディレクターを務めた。彼は、『The Family of Man』のように、写真を社会改革のツールとして使うのではなく、個人的な視点と独自の表現を実現する手段としての写真に注目し、写真をフォトジャーナリズムから芸術に昇華したキーパーソンであった。

そのシャーコフスキーが手掛けた初期の展示が、『New Documents』であり、ニュー・ドキュメンタリーの潮流を明確化する画期的な展覧会であった。先の記事では、アレック・ソスもその影響下にあるということを指摘したが、日本においてもこの影響は強く、1966年のジョージ・イーストマン・ハウスでの『Contemporary Photographers, Toward A Social Landscape』展とあわせて、コンテンポラリーフォト(いわゆる「コンポラ写真」)の流れを生み出した。

コンポラ写真の代表的作家である牛腸茂雄は、ダイアン・アーバスのような双子の姉妹を撮影している。牛腸茂雄は身体的に障害を負っており、そのことが被写体との距離感に微妙な影響を与えている。牛腸茂雄のそうしたフラジャリティが、被写体の柔らかなまなざしとなって返ってくる。アーバスのような距離の詰め方をしない牛腸の撮影は、むしろアレック・ソスとの類似性を感じさせる。

牛腸茂雄《SELF AND OTHERS》より

ともあれ、『New Documents』展では、それまでのフォトジャーナリズムでは当たり前であった社会的メッセージが後退し、個人的で主観的な視点で、何の変哲もない日常を、ブレッソンの決定的瞬間とはズレたタイミングで撮影された写真が、評価の遡上にあがってきたのである。

時代的に、ちょうどベトナム戦争中であり、1966年には沢田教一が、1968年には酒井淑夫が、ベトナム戦争の写真でピューリッツアー賞を受賞している。『New Documents』展の翌年1968年にはテト攻勢によりアメリカが支援した南ベトナムが大きな被害を受け、世論も反戦へと大きく転換し、1972年に発表された通称「ナパーム弾の少女」の写真は、その決定打ともなった。このように、フォトジャーナリズムがまだまだ強い影響力を持っていた中、『New Documents』は当初は十分に理解されなかった。しかしその後、着実に人々の写真観に影響を及ぼしていった。

沢田教一《安全への逃避》

1976年には、ニューカラーの到来を告げるウィリアム・エグルストンの個展『Color Photographs』が開催され、さらに、1978年には、『Mirrors and Windows』では、写真家が撮影する際の意識に着目して、自身の内面を対象に反映させ自己表現のために撮影する鏡派と、カメラを通じて外の世界を眺める窓派に分けて展示した。自己探求の鏡、外部探索の窓。このふたつにきれいに分類されるわけではなく、実際に展示の分類でもなぜそのように分類されたのかわからないものもあったが(たとえばアーバスは窓派とされたが、違和感がある)、それでもこの分類は、鑑賞者と言うよりも写真作家たちに内省を促すような効果があったと言えよう。

ジョン・シャーコフスキー『Mirrors and Windows』

こうした大胆なキュレーションが可能となったのも、シャーコフスキー自身も写真制作を行っていたことが影響しているだろう。1991年のMoMA退職後にはいよいよ作家活動を活発化させ、2005年には大規模な個展を開くまでであった。そうした彼の作家としての意識が、キュレーションにも生きたのだろう。最後の大規模プロジェクトであった1990年の『Photography Until Now』展では、150年間の写真表現および写真機材の発展などを時代ごとに整理した。写真芸術史を締めくくる、メルクマールとなる展示となった。

その後の写真表現は、動画の登場などによりまた違うフェーズに突入していく。ある意味、シャーカフスキーとともに、写真の歴史が終わり、私たちはその写真史以後を生きているような感覚もある。2024年を生きる私たちは、常にこうした歴史に対する応答としての表現が求められるのだ。その意味で、アレック・ソスは、写真史的に正しい作家のあり方を体現している写真家のひとりであるように思える。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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