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中土井僚 × 小山龍介 『ビジョンプロセシング』出版記念対談 〜生起するビジョンとビジネスモデルのプロセシング〜(4)

中土井僚 × 小山龍介 『ビジョンプロセシング』出版記念対談 〜生起するビジョンとビジネスモデルのプロセシング〜(3)のつづきです。


ビジョンに縄文や室町の世界観を

小山 『ビジョンプロセシング』に話を戻しましょう。僚さんもおっしゃった通り「ビジョンというのは、2030年に2030億円みたいなことではない」と。

中土井 はい。そうですね。

小山 インスパイアさせるようなビジョンでなければならない。ビジョンドリブンで駆動していくときに(それはノルマとして駆動させていくんじゃなくて)、それにヒントを得られるものだ。とすると、僕はビジョンをつくるときに(日本人限定にはなっちゃうのですが)縄文とか室町の世界観を反映させるほうが従業員にとってインスパイアするものがあるんじゃないかって思ってるんですよ。そのぐらいの、なにか歴史的なものと接続したビジョン設定をしたときに、われわれは動き始めることができるんじゃないか、っていう……。

中土井 いま、「この続きは拾ってね」みたいな感じの目で見ましたね?(笑)

小山 はい。ぜひ(笑)

中土井 お応えできるかどうかわからないんですけど、いまのお話を聞いて思ったのは、この人新世と言われる時代において、他の生物、種からみたら、ある意味、ホモサピエンスってめっちゃ邪魔というか、めちゃくちゃ自分たちを苦しめる悪のような存在かもしれないし、地球はなんのかんの地球らしく命が続いていくだろうとしたら、いまの状況ってホモサピエンスにとっての都合が悪いだけですよね。という観点からすると、私たちホモサピエンスという存在に意味があるのかないのかって、本当に究極的な問いだなと思います。

それは単なる見方に過ぎないから、意味があるとも言えるし、ないとも言えるし、どちらでもないとも言える。私が思うのは、「どうして人間は発達できてしまうんだろう」っていうことと、「私たちの内側からインスピレーションが湧くって一体なんなんだろう」っていうことです。

地球(ガイア)という生命体の一部である私たちは、ある意味、人体における肝臓のなかの幹細胞と同じように、地球というガイアの一部だと言える。その、一細胞に過ぎない私たちが、なぜかインスピレーションを得ることができる。

頭で考えた「2030年に2030億円」とは違う、インスピレーションが内側から湧き起こる。これって、なにかの価値や意味を私たちは見いだしうるんじゃないかな、っていうことを、私自身が願いとして思ってるって感じです。

それは私たち人類にとって都合がいいかどうかわかりません。ただ地球という、宇宙という生命体の一部として、インスピレーションというプロセスが進化する流れのなかのひとつであるのだとしたら、私はその一翼を担いたいなっていうふうに思ってます。

ビジョンで認知の合意形成をする

小山 もう少し、補助線を引くとですね、私にひとつ仮説があるんです。いま構造の話をしてますよね。世の中の構造があって、どうしてもそう振る舞わざるを得ないことがある。その構造のなかで、無自覚に振舞っている人と、自覚したうえで、たとえば「部長だから部長らしく振舞っている」という状態にある人とは、態度としてやっぱりちょっと違うと思うんですよね。

無自覚にどっぷり浸かっているよりは、「こういう役職だから敢えて演じているんだ」っていうレベルにあったほうが、まだなんか良さそうな感じがします。そのときに、このシステム構造をどのように見るのかっていう自分の認知構造を(もちろん、スキーマという話で言えば、発達させるっていうこともあるんですけども)、意識的に選択することもできるようになってくるんですね。そこからちょっと距離をとることによって。

中土井 なるほど。

小山 社長のことを「お殿様」とかって呼んだりすること、あるじゃないですか。そうやって、別の言葉で呼ぶっていうのは、別のフレームでそれを見ることによって距離を取りつつ構造を自覚するということだと思うんです。「お坊ちゃんだからね〜」みたいな感じで、人間関係を違うメタファーで表現するとかってあるんですね。

そういうふうに認知構造を変えてくときに、ビジョンのひとつの役割として、ビジョンを設定することによって、そのビジョンを共有した人の認知構造、世の中をこういうふうに見てみよう(まさに、ビジョン、ですよね?)、認知しようじゃないかっていう認知の合意形成をし、そこからインスパイアされて行動する。認知構造としてのビジョンが、役割としてひとつあるんだろうなと。

プーチンとかトランプって、そういう意味では認知としてのビジョンを示してると思うんですよ。認知としてのビジョンの選択みたいなことを提示して、それでいかにみんなである種の合意を取って向かっていけるようにするのかっていう、そういう戦いになってきている。

いままでとは違って、認知ビジョンっていうのが重要なんだ。僕は、そういうふうにこの本を読んだところがあるんですね。

その認知ビジョンみたいなことをたどっていくとき、昔に参照するんですよね。たとえば中国で言えば、孔子がそうですよね。過去に優れた政治が行われていた。それをいかにいま、再現するか。基本的には儒教の考え方で、人間のスタンスとして、過去に(これは幻想なんですけど)優れたものが行われていて、それをわれわれはどう引き継ぐか、よりいいものをつくっていこうっていう話になったときに(先ほどのプレゼンでも、現在が重要だ、そこを軸にするんだって話がありましたけども)、別の見方をすると、過去を軸にして考えていくのも実はずっと連綿として行われていて、ロシアや中国などでは、いま、それを使った独裁者が国を治めている。つまり、人々の認知を歪めてるわけなんですけど、過去の扱い方がすごく重要なんだろうなって思うんです。

中土井 なるほど。

小山 だからビジョンの役割として、「認知構造を選択する」っていう言い方でも間違いではないしその一部であるっていう感じがします。

中土井 一部であるって感じですかね。

いまこの瞬間自分たちを勇気づけるものとしてのビジョン

中土井 『ビジョンプロセシング』は実用書なので、あんまり哲学的なことになりすぎても、と思って避けてるところがあるんですよね。

なので、この本では、「たどり着けばより良くなるよね」っていうゴールセッティング型のビジョンではなく、「いまこの瞬間自分たちを勇気づけるものであったらいいよね」って位置づけてる。

プロセスを充実させる「ビジョンプロセシング」とも語ってるんですが、そのビジョンを、認知として捉えているのかというと、それはたしかに半分ぐらいはそうです。残りの半分は、U理論で言うところの「出現する未来」、私たちのなかからわけもなく湧き上がってくるなにか、なにかわかんないけどこうだと思うものは、これから始まっていく未来がいまこの瞬間に起きているのかもしれないねっていうことでもあるんだと思うんですね。

私たちはだれもがこれからの未来の起点でありうることができる。過去の経験を、枠組みを乗り越えて、なにかわからないけど自分のなかでただ確信がある、描いたものが自分のなかで湧き上がってくるときに感動せざるを得ないかのような、そういったようなものを可能にできるのかもしれない。

そういう意味で言うと、私たちはビジョンとどう向き合うかっていう話も大事なんですが、私たちは、もしかしたらなにも描かれていないまっさらなキャンバスとしての自分が、どの瞬間、どの瞬間、どの瞬間もあって、そこからなぜかわけもなく湧き立っていくことがこれからの時代や世界を彩っていく未来の始まりかもしれないねって感じです。

なので、私のなかでは「ビジョンプロセシング」にかけた思いのひとつは、私たち一人ひとり、だれもが未来の始まりなんだよ、これから始まる未来の担い手なんだよって言うことをお伝えしたかったっていうのもありますね。

「まっさら」、なのか……?

小山 僕はやっぱり、その「まっさらなキャンバス」がちょっと引っかかるんですよね……。

中土井 なるほど。

小山 たとえばですよ、私は野田秀樹の演劇が好きなんですけど、野田秀樹は、「自分は坂口安吾の生まれ変わりだ」って本のなかで何度も書いてるんですけど、そんなことあり得ないですよね。あり得ないけれど、亡くなった魂が自分に受肉して生まれたんだって言って、彼の尽きることない創作の原点は、「引き継いだ」っていうところにあるんですね。彼は新しい演劇をつくり続けているんだけども、そこには実はそうやって「引き継いだ」っていう感覚がすごく大きなパワーを与えているような気もするんです。

まっさらな自分、まさに自分から出現しているんだけれども、そのソースがどこにあるのかというと、やっぱりどこか、自分じゃないところ(過去?)につながらないといけない。そこに対して自分が自覚的であることがインスピレーションを得るためにもすごく重要で、まっさらな自分から生まれたものがオリジナルだって言ったときに、ちょっと引っかかるんですよ。あらゆる芸術は、過去のものからインスピレーションを得たり、同世代の人からもインスピレーションを得ながらつくっていく。この感覚からすると、その「まっさらなキャンバス」っていう表現にちょっと引っかかるんですよ。

中土井 それはある意味、実在と認識の話だと私は思っていて、龍介さんは「それは実在だ」って言ってるんですよね。

小山 そうですね。

中土井 認識論者からしたら、それは実在だとは言い切れないところがありますよね。

私が「まっさらだ」と言ってるものも、まっさらっていう状態がある。そこからなにか現れるものがある。これも認識論者からしてみたら「それって単なる認識じゃん」となる可能性があるから、それは実在なのか認識なのかは、決着つかない話だと私は思ってます。つまり、便宜的にそういうしかないんじゃない? って思ってるところがある。

小山 たとえば組織の話で言うと、結局その組織の出発点に戻るしかないんですよね。「この会社はこういう思いで創業者が立ち上げた。それはもう150年前のことだ。しかし、昨今売上も下がってきて大変なことになった。さて、われわれのレゾンデートル(存在する意味)はなんだろうか」と考える。時代によって会社の役割は変わるかもしれないけれど、糸の切れた凧のように、環境や状況によってふわふわとレゾンデートルが変わってっていいんだろうか。そう考えると、創業者から事業を受け継いできた150年、事業内容は150年前とぜんぜん違うかもしれないけれど、たとえばそこには「衛生環境によって人々に生活の暮らしを豊かにしよう」みたいな思いがあったとすると、それはわれわれのレゾンデートルだよねって合意されやすいですよね。

という実務的な問題がひとつあって、その根拠を探したときに、そういうふうに「いやいや、それはあくまで環境、構造によって変わるんだから、それは認知の問題でしょう」と言い切れないものがあるんじゃないかと思うんです。

中土井 それは、私からすると、やっぱりオリジン論者になっちゃうなと思うんです。認識論者からしてみたら「それは認識でしょ」っていうふうに論破される可能性があるのを否めないと思うんですね。オリジンが実在してるって言ってるように私には聞こえるから、オリジンが本当に実在するかどうかって証明のしようがない。

小山 オリジンが実在しているとは言ってないですよ。イリュージョンなんですよ。それを人々が信じるという構造がホモサピエンスにありますよね。『サピエンス全史』(河出書房新社 、2023年)で、ハラリが言ってることです。ライオンがわれわれの部族の象徴であると言ったときに、それまで150人が限界だったのが、何千万人という都市をつくったと。そういうことも含めて考えると、ある種の幻想としての根拠が必要なんだと言えるのではないかというのが、思っているところですね。

中土井 そこに対してはかなり合意します。私たちは、言語構造によってかなり認識が司られている。多くの言語は、「主語/述語」でできてますよね。「主語が原因で述語が結果」っていう因果関係でものごとを捉えるっていう構造が埋め込まれてしまっている。「私は歩く」と言うと、私という原因が歩くという結果をつくっているっていうふうに原因結果を見出さざるを得ない。なので、なにかの原因を見いだしていくことに安心を覚えやすいっていうのは間違いなくあるだろうなっていう気はしますよね。

小山 そうですね。それもそうなんですけれども、もっとちょっと違う論理が働いてる感じがするんですよね。

共同幻想をどう持つか

小山 これが適切なたとえ話かわからないし、最近勉強したことなので、ちょっと付け焼刃的なところあるんですけれども、日本において、第二次大戦の敗戦ってものすごいインパクトがあって、敗戦を何歳で迎えるかによってその影響ってものすごく違うらしいんですよ。鹿島茂さんっていう人がシラスっていう動画の配信サイトでレクチャーをしていて、吉本孝明を取り上げてるんですけども、吉本は20歳で学徒出陣で戦争に行かなくちゃいけなかった。終戦を20歳、ないしは戦争に行く手前ぐらいの18歳、2年したら学徒出陣で自分たちはもう死ぬんだというときに敗戦を迎えた人と、実際に学徒出陣して帰国した人と、もっと若くて15歳とかで、終戦を経験した人ではすごい違いがある、と言うんです。

学徒出陣して戻ってきた人は、もう自分たちがリアルに死ぬって思った。軍隊なんて馬鹿げたことやってる場合じゃないって、ガッと転向するわけですよ。15歳ぐらいだと、逆に、日本はもう少しやれたんじゃないかって、戦争についてのリアリティがそんなにないのでイケイケみたいな感じですね。

吉本孝明は、まさに死ぬと思っていた。「なんで死ぬのかそのことに理由をつけないと納得いかない」ということで自分の死ぬ理由を突き詰めて突き詰めて考えていったときに、国のために死ぬのは抽象的すぎる、でも天皇のために死ぬっていうのは、ありうるかもしれない、と、そのときに実際にそう思った。こういうのを共同幻想って呼んだんですよね。

家族のために死ぬっていうのはすごくわかりやすい。でもわれわれが集団で動いていくためには、それを超えた、共同幻想みたいなものが必要だっていうことを言ってます。

僕はその話は、ハラリの言う「ホモサピエンスが象徴を抱いてフィクションで統合していった」って話の、よりリアルな具体版みたいなことだと思うんです。そうしたときにその組織がビジョンに向かって、究極には特攻隊となって死ぬみたいな、生死を含めたところまで同一化していく。そういう世界がひとつ参考になるとしたら、そこに自分を投影する幻想をどうやって持つのかがすごく重要になってくると思うんです。その幻想は、単に外部環境から帰納的に導かれたものでは、十分に説得力を持たないんじゃないかと。

中土井 「十分に説得力を持たない」っていうのはだれに対して?

小山 そのメンバーに、ですね。従業員に。

中土井 外部環境によってつくられたビジョンとは、たとえば、具体的に言うとどんな?

小山 たとえば、「われわれは環境問題を解決するために存在してる会社ですよ」っていうことを、どの会社もこういう状況なので当然言ってますよね。それは多くの人が合意をするだろうし、同意はするんだけども、そこに究極、自分の命を投げ打つぐらいの共同幻想的なものを描けているかっていうと、そこまでには至っていないという感じがするんですよね。

中土井 おっしゃろうとしていることを、私がどのくらい汲み取れてるかがわからないので確認として伺ってみたいんですけど、「共同幻想として、生まれるビジョン」と、「過去から連綿とつながってるものがあるはずで、それがあるからまっさらなものはない」っていう話は、同じ話ですか?

小山 同じ話です。

中土井 なるほど。それはどういう意味で同じなんですか。 それは認知のなかで構築されてるって言っているのか、それとも私たちの人間の器というものは、そもそもありやなしやっていうもの全部超えて、自分たちのなかを透き通っているかのように、もともと染み渡らせているものがあるんだっていうふうにおっしゃってるのか。どっちなんでしょうね。

小山 まず、さっきの話にちょっと戻るんですけども、「言語自体が他人のものである」「私たちの思考は他人の思考である」っていうのは決定的なんですね。どんな言葉を喋ろうとも、それは他人の言葉であるっていうことです。そのときに、まっさらなところに自分の言葉でビジョンを描いたところで、どこまでいってもそれは他人のものだって疑うことができる。自分のなかで内省していけば。言葉を使ってるということはつまりそういうことなんですよ。他人がどっかで使ってた言葉を聞いてて、覚えていて、それを使ってるだけなんです。

とすると、「自分の言葉」っていうものは、結局、ないんですよね。小沢健二が20代のときに書いた歌に「勉強すればするほど、なにも言えなくなる」ってあるんですけど、全部、他人の言ったことを言っちゃうだけになるっていう状態があります。

そこからひとつ越えていくときに、「自分がそれを選択する」ことによって、そこに主体性がちょっとだけ出てきますよね。でもそれもまた、家族の影響とか、いろんな外部の影響を受けながら選択をしたっていうことになるかもしれない。ただそこを突き詰めていくと、そこもずーっと鏡合わせのように、結局、自分じゃない、自分じゃないっていうふうにはなっていくんですけれども、あるところで、その幻想に対して自分なりに納得がいって、なんていうか、そこにコミットできるものが生まれてくる。

突き詰めていったときに、結局、自分っていうのはなんなんだろうかっていうのの、その先は、自分の生まれた時点じゃなくて、生まれる前の時点に、文化的にも言語的にも遡らざるを得ない。個人でも、組織でも同じことが言えるんじゃないかと。

中土井 その人のなかで世界が構築されている、現実認識が構築されているっていうのは、なにかしら言語というものの影響を受けて存在するという前提があって成り立つ論拠だなっていうふうに聞こえるんですけど。

だから言語というものが実在しているっていう前提があること。それが故にだれかがつくったものがある。それに私たちは影響を受けているんだ。っていう前提のもとに成り立っている論拠のように聞こえてるんですけど、それで合ってます?

小山 ……まぁ、そうですね。

中土井 それは、実在か認識かっていう話で、多分、決着がつかない話になるんじゃないかなと思います。認識論者からしてみたら、「そういう認識でしょ」って「それ、実在とは言えないでしょ」っていうふうに言われる可能性はありますよね。

小山 実在とは言ってないです。認識自体が再生産されて……

中土井 龍介さんにとっては、言語は実在してるんじゃないですか。「言語が存在しているので言語が認識をつくってる」っていう話に聞こえます。

小山 「言語が認識をつくっている」。……そうですね。言語だけではもちろんないんですけど。

中土井 少なくとも言語は実在してるっていう前提に立ってると思いますけど。

小山 ……「実在している」ってのはどういうことを言ってるんですかね。

中土井 それが本当に存在として、現実として「ある」っていうことですね。否定しがたい現実として存在している、というのが実在論者が言っているポイントで、「実在」というものは私たち人間が全部消え去ろうとも必ず存在するものとして……

小山 そういう意味ですよね? いや、だからそれは存在してないんですよ。つまりそれはお金の価値と同じことなんですよ。「犬」っていう言葉に「犬」っていう意味があるとかっていうことも含めて……

中土井 言語は存在するんですか? 「言語によって生まれた意味は存在しない」はそうだと思うんですよ。 言語が存在してることを前提に話されてる気がするから

小山 でも言語は人間が生まれる前は存在してないですよね。

中土井 うん。だから生まれた後は存在したでしょ。

小山 あるところから言語が存在する。ただ、その起源はわからないですよ。その起源がわからないってことは貨幣と一緒なんですね。一万円がなぜ一万円の価値を持ってるのかはわからない。いまの話で言うと「お金は実在してるんですか」って言われると、いや「実在」の定義によっては実在してない、お金なんか存在してないと言うこともできるわけですよね。そういう意味では、言語は存在してない。

けれども、言語によって意味が伝達されている。お金によってモノが売買されているという現実はたしかにあると言える。その意味で、言語によってコミュニケーションが行われて、そこで意味が媒介されているような現象が起こってること自体は、たしかにそれは起こってるっていうことですよね。

中土井 だから、実在か認識かって、本当に決着がついてない問題だと私は見てるんですよ。哲学のなかで。もうそこは証明のしようがないから。本当に実在するものってありやなしやは、決着ついてないと僕は認識してるんですね。

小山 でも先ほどおっしゃったように、人間が死んだ後にも存在してますかっていう話……

中土井 そういう話じゃない。実在論者と認識論者の哲学論争はそういうものだとは認識してない。

小山 ですよね。

中土井 そもそも存在してるって証明できるの? っていう。

小山 イギリス経験論みたいな話ですよね。リンゴがそこに存在してるかどうかわからん、みたいな話ですよね。究極は、この本が存在するかどうかもわからない。

中土井 だとしたときに、言語が存在してるっていうのは……

小山 あ、そういう意味では、わからないですよ。

中土井 なるほど。

小山 それはカント的な観点ですよね。僕も物自体には触れられないので。そういう意味では認識論者ですよ。

中土井 なるほど。

(5)につづく


登壇者プロフィール

中土井僚 (なかどい りょう)

広島県呉市出身。同志社大学法学部政治学科卒。
リーダーシッププロデューサー、組織変革ファシリテーター。「自分らしさとリーダーシップの統合と共創造(コ・クリエーション)の実現」をテーマに、マインドセット変革に主眼を置いたリーダーシップ開発及び組織開発支援を行う。

コーチング、グループファシリテーション、ワークショップリードなどの個人・チーム・組織の変容の手法を組み合わせ、経営者の意思決定支援、経営チームの一枚岩化、理念浸透、部門間対立の解消、新規事業の立上げなど人と組織にまつわる多種多様なテーマを手掛ける。
過去に携わったプロジェクトは、食品メーカーの理念再構築、業績低迷と風土悪化の悪循環が続いていた化粧品メーカーのV字回復、製造と販売が対立していた衣類メーカーの納期短縮など100社以上に及ぶ。
アンダーセンコンサルティング(現:アクセンチュア)とその他2社を経て独立。2005年よりマサチューセッツ工科大学上級講師であるオットー・シャーマー博士の提唱するU理論における啓蒙と実績に携わり、現在に至る。

オーセンティックワークス株式会社 代表取締役
社団法人プレゼンシングインスティチュートコミュニティジャパン代表理事
特定非営利活動法人 Reach Alternatives (REALs)理事
株式会社ミライバ 取締役

<執筆・翻訳・監訳実績>
・「人と組織の問題を劇的に解決するU理論入門」(PHP研究所)
・「マンガでやさしくわかるU理論」(日本能率協会マネジメントセンター)
・「U理論~過去や偏見にとらわれず、本当に必要な『変化』を生み出す技術~」
(英治出版)  C.オットーシャーマー著
・「出現する未来から導く~U理論で自己と組織、社会のシステムを変革する~」
(英治出版)  C.オットーシャーマー著
・「なぜ弱さを見せあえる組織が強いのか~すべての人が自己変革に取り組む「発達指向型組織」を作る~」(英治出版) ロバート・キーガン、リサ・ラスコウレイヒー著

<資格・研修・プログラム等>
国際コーチ連盟認定資格CPCC(プロフェッショナルコーアクティブコーチ)
Neuro Linguistic Programming(神経言語プログラミング)プラクティショナー
CRR認定オーガニゼーション&リレーションシップシステムコーチ
組織人事監査協会認定パーソネルアナリスト
ヒューマンサイエンス研究所認定Self Expanding Program認定スーパーバイザー
GIALジャパン認定 アクションラーニングコーチ
オープンスペーステクノロジープラクティショナー
ワールド・カフェプラクティショナー
ストーリーテリング・プラクティショナー
プロセス・ガーデナープラクティショナー

小山龍介(BMIA総合研究所 所長)

株式会社ブルームコンセプト 代表取締役
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
ビジネスモデル学会 プリンシパル
一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会 代表理事
一般社団法人きりぶえ 理事
一般社団法人日本能楽謡隊協会 理事
一般社団法人Japan Innovation Network フェロー
大分県文化財保護審議委員
丹波篠山市日本遺産・創造都市推進委員会委員

1975年福岡県生まれ。AB型。1998年、京都大学文学部哲学科美学美術史卒業。大手広告代理店勤務を経て、サンダーバード国際経営大学院でMBAを取得。卒業後、松竹株式会社新規事業プロデューサーとして歌舞伎をテーマに広告メディア事業、また兼務した松竹芸能株式会社事業開発室長として動画事業を立ち上げた。2010年、株式会社ブルームコンセプトを設立し、現職。

コンセプトクリエイターとして、新規事業、新商品などの企画立案に携わり、さまざまな商品、事業を世に送り出す。メンバーの自発性を引き出しながら商品・事業を生み出す、確度の高いイノベーションプロセスに定評がある。また、ビジネス、哲学、芸術など人間の幅を感じさせる、エネルギーあふれる講演会、自分自身の知性を呼び覚ます開発型体験セミナーは好評を博す。そのテーマは創造的思考法(小山式)、時間管理術、勉強術、整理術と多岐に渡り、大手企業の企業内研修としても継続的に取り入れられている。翻訳を手がけた『ビジネスモデル・ジェネレーション』に基づくビジネスモデル構築ワークショップを実施、ビジネスモデル・キャンバスは多くの企業で新商品、新規事業を考えるためのフレームワークとして採用されている。

2013年より名古屋商科大学ビジネススクール客員教授、2015年より准教授として「ビジネスモデルイノベーション」を教える。さらに2014年には一般社団法人ビジネスモデルイノベーション協会を立ち上げ、4年間代表理事を務め、地域おこしにおけるビジネスモデル思考の普及活動に取り組む。2014年〜2016年沖縄県健康食品産業元気復活支援事業評価会員。2016年より3年間、文化庁嘱託日本遺産プロデューサーとして日本遺産認定地域へのアドバイス業務。2019年〜2021年大分県文化財保存活用大綱策定委員。2020年〜大分県文化財保護審議会委員。2020年〜亀岡市で芸術を使った地域活性化に取り組む一般社団法人きりぶえの立ち上げに携わる。

2018年京都芸術大学大学院 芸術環境研究領域 芸術教育専攻 修了・MFA(芸術学修士)取得。2024年京都芸術大学大学院 芸術研究科 芸術専攻 博士(芸術)取得、2021年京都芸術大学 非常勤講師。

著書に『IDEA HACKS!』『TIME HACKS!』などのハックシリーズ。訳書に『ビジネスモデル・ジェネレーション』など。著書20冊、累計50万部を超える。最新刊『在宅ハック』。

2013年より宝生流シテ方能楽師の佐野登に師事、能を通じて日本文化の真髄に触れる。2015年11月『土蜘』、2021年11月『高砂』を演能。2011年には音楽活動を開始、J-POPを中心にバンドSTARS IN BLOOMでギターとボーカルを担当。2018年からフォトグラファーとしても活動を開始。2018、2019年12月グループ展『和中庵を読む』、2023年グループ展『Inter-Action』に作品を出展、APA AWARD2024入選。






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