光を読む、時間を読む
写真を撮るようになって、光の質に敏感になった。
夏の昼間の日差しは強すぎてコントラストがくっきりでるので、正直、屋外で人撮影しても顔に落ちる影がすごいし、寒色の蛍光灯と暖色のLEDが混ざり合う室内では肌の色がきれいに出なくて、撮影が難しい。いいカメラやレンズを使っていても、光がだめだと、いい写真にはなりにくい。
同じ夏であっても、朝は光が柔らかい。斜めから差し込むことで、より厚い大気の層を抜けてくるので、光がいい具合に拡散するのだ。最近のデジカメは暗所性能が高いので、室内できれいな写真を撮りたいときには、一度すべてのライトを消して撮影する。間接的に入ってくる自然光は、きれいなグラデーションを作ってくれるが、その自然光も刻々と変化する。光は時間によって変わっていく。こういうことも、写真をやっているとわかってくる。
こうした光の質について、普段、私達は無自覚だ。対象となるものを、人や建物、山や海といった記号で処理するから、その表面が強い光でパキッとしていても、柔らかい光でふわっとしていても気にすることがない。記号から対象そのものへ。風景を、曇りなき眼で見る。そこが出発点だ。
写真のうまい下手は、この眼によるところが大きい。写真が上手い人は、最初から上手い。風景の中にいい写真が見えている。一方で、写真が下手な人はなかなか上達しない。いい写真が浮かび上がってこないから、シャッターも切れない。もしくは、いいタイミングでシャッターを切れない。これは、対象を、記号として捉えてしまい、対象そのものを見ていないから起こる。たとえば、子どもたちのよい表情を捉えるフォトグラファーは、子どもの目まぐるしく変わる表情の変化に注意を向ける。下手な人は、子どもを撮る。そこでは、時間が止まっている。
曇りなき眼が捉えるのは、光の先にある、こうした時間の推移だ。
荒木経惟の本に、彼が撮影したフィルムのラッシュ的なもの?が掲載されていたのだが、無駄な写真がほとんどなくてびっくりした。シャッターを切る回数が格段に少ない。ほとんどがOK写真だった。狙っている風景が明確だから、撮り終わったこともわかる。写真の取り始めは、この「撮り終わり」がわからない。撮ろうと思ったときに、その終りが見えているのが、プロだ。荒木は、死=タナトスを見ながら、生=エロスを撮ったというのは、この撮影に向かう態度ひとつにもあらわれている。
変化する光、変化する被写体、そこで狙った写真の終わりを先に見る。光を読むというのは、光にまつわる時間を読むということなのだ。
AIにこのエッセイの感想をお願いしてみた。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
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小山龍介のビジネスモデルノート
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