能を通じて古層にアクセスする
能を学ぶ理由として、ひとつは日本の伝統文化を身体知として身につけたいというものがある。室町時代の型を現代に残す能は、当時の人々と一体化し、その思考を追体験することができるように思う。
世阿弥が生きた14〜15世紀に、ここまでの芸術が成立したことに驚きを禁じ得ない。能の幽玄は、世阿弥によって大成されたが、それは世阿弥ひとりの力ではない。当時の貴族・武家社会がそれを求めていたという背景があって初めて、可能になったことだ。その幽玄を、私たちは今、自分たちの身体を通じて追体験できるのである。
しかし、実はその追体験は室町時代にとどまらない。さらにそれ以前の古層のイメージが、能には深く織り込まれているのである。
たとえば私が演能した「土蜘(つちぐも)」は、葛城山に棲む伝説の妖怪が頼光に取り憑く話ではあるが、その「土蜘蛛」という名称はもともと、ヤマト王権に従わなかった土豪を指す名称であった。彼らは山の中に住み、穴の中に土隠(つちごもり)していたことから、「つちぐも」と呼ばれるようになった。
そうした古代の記憶を色濃く残す土蜘蛛は、妖怪でありながら、同時に私たちにヤマト王権と土豪の相克の歴史にアクセスする扉を用意してくれる。そして、古代に討ち取られたはずの土蜘蛛を能の舞台に召喚し、再び退治するのである。ここに、土豪たちの鎮魂の儀式としての意味がうっすら重なってくる。
11月30日行う発表会では、「山姥」舞囃子を舞う予定なのだが、この山姥もまた、そうした古層のイメージが深く刻み込まれている。中沢新一は『構造の奥 レヴィ=ストロース論』で次のように書く。
能には、「能にして能にあらず」と言われる特別な演目「翁」がある。翁は、神事として特別なものとして位置づけられている。中沢によれば、その「翁」ともつながる山の神のイメージをもつのが「山姥」なのである。
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小山龍介のビジネスモデルノート
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