歌のなかの神々
好きなアーティストの歌の中に、共通のものを見つけるとうれしくなる。と同時に、その違いも浮かび上がってくる。今日は、浅井健一と小沢健二の歌う「神様」について書いてみたい。
小沢健二が19年ぶりにリリースしたシングル「流動体について」は、長らく海外に出かけて戻ってこなかった小沢健二の「僕らが旅に出る理由」に対するアンサーソングになっている。「ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり、誰もみな手をふってはしばし別れる」と歌った「ぼくたび」の、「しばし」の別れは、ファンの想像を超えて、20年近くにもなった。「流動体について」は、その海外から戻る飛行機の中、東京に到着する場面から始まる。
この旅の行き帰りのベクトルの違いは、都市と言葉の関係にも転写する。「ぼくたび」のころの小沢健二の言葉は、まさにそのときの都市が響かせた言霊だった。アルバム『LIFE』の爆発的ヒットは、小沢健二をして、「これはたいへんなことになることがわかった」と言わしめた作品だったが、そこには、あの時代、あの空間が作らせた作品であるようなニュアンスを強く感じる。
「流動体について」では、「意思は言葉を変え、言葉は都市を変えてゆく」。ある意味、言語論的転回が起こっている。20年近くぶりに出会う小沢健二は、何かを構築しようという意思でもって言葉を操り、その言葉によって都市が姿を変える。そんな蜃気楼のような風景を炸裂させる。「躍動する流動体 文学的 素敵に炸裂する蜃気楼」。僕はそこに、小沢健二の宣言を聞き取った。
さて今日は、その小沢健二の話ではなく、その「流動体について」の曲の中に出てくる「神様」の話だ。こんな歌詞がある。
小沢健二の歌う神さまで忘れてはならないのが、「天使たちのシーン」に出てくるこの部分だろう。
生きることをあきらめてしまいかねないギリギリのところで、ゆるやかな人と人のつながりで救われるというこの曲において、神様を信じることは弱さではなく、強さであった。その「神様を信じる強さ」という言葉が、「流動体について」の「良いことを決意する」という言葉と響き合っている。
小沢健二の神さまは、私たちが生きるこの世界のまわりを周回する天体のようだ。その重力場で、私たちの精神に影響を与える。そんな神さま。
一方、浅井健一の歌う神さまは、もっと肩の力が抜けた感じがする。
小沢健二が、神さまに対峙するときに、「信じる強さ」や「決意」を語るのに対して、ここで浅井健一がいう「天」は、そんな気負いはいらない。なんの思惑もなく、だから人を救ったり助けたりもしない。そんな天に、踊りを見せる。「それぐらいのことがいい」。
浅井健一の神さまは、そして残酷な面も持っている。
Pin Ballで人の運命を弄んだり、欲望むき出し社会をそのままにしておくような神様だ。この現実世界と同じ次元にいて、現実の悲しい出来事にいちいち涙したりしない、神様。そんな神様には、踊りでも奉納しておく、「それぐらいの ことがいい」。
小沢健二と浅井健一、このふたりの歌う神には、まるでアマテラスとスサノオのような互いに補い合う関係があるように思える。このことについては、また改めて考えてみたい。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師