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自責と他責

屋外で行う大切なイベントでたまたま大雨が降ったとする。その責任はもちろん、誰のものでもない。たまたま雨が降ったということであり、責任の所在はどこにもないだろう。しかし、結果としてイベントが台無しになったことは、変わりがない。結果責任は、結局本人が負わなければならない。

経営者の孤独は、この結果責任を負うことにある。多くの社員が、経営者を無能あつかいしていることはよく知っているが、しかしその「無能」な経営者が結果責任を負わされていることの意味を理解していない。社員が不正をしたら、なぜか自分が辞任しなければならない不条理な結果責任だ。

社員であれば、「上司のせいだ」と言うこともできるし、「会社のせいだ」と言うこともできる。社員である「私」は正しいことをしているので、責任はないと言える。しかし、結果責任はそのレベルの責任ではない。結果責任を負える人だけが経営者になれるし、経営者になればいやおうなく結果責任を負わされることになる。

この結果責任は、子どもを育てるときにも痛烈に実感する。子どもの人生の責任について、たとえば交通事故にあったとして、その自己の責任については、第三者から6:4のように客観的に判定されることもあるだろう。しかし親としては、事故に合わせた責任を一身に背負ってしまう。「あなたのせいではない」という言葉がまったく慰めにならない。その「あなたのせい」でいうところの責任ではない、別の次元の責任を背負っているからだ。

今、子どもの人生についての話を例に出したが、もちろんこれは自分自身の人生にも当てはまる。自分の人生を棒に振るできごとがあったとき、私たちはいろいろな人のせいにすることができるだろう。あの教師が悪かった、あの上司が無能だった、あの毒親がよくなかった、あいつらのせいで人生を棒に振った。しかし、そこを踏みとどまってほしい。そこでいう「◯◯のせい」という言葉を積み重ねても、人生を棒に振ったという結果責任からは逃れられない。棒に振ったのは、誰でもない、あなたなのだ。他人に人生を委ねてはならない。

名古屋商科大学ビジネススクールでは、修了要件にケースライティングが含まれている。多くの学生が、自分自身を主人公にしている。そのケース発表会が修了式前に行われるのだが、それは、その学生にとっての晴れ舞台であると同時に、教員にとって教育がちゃんと行えていたのかという確認の場にもなる。

ある学生は、困難なプロジェクトをなんとか成功させようと努力するが、最終的に経営陣の判断により、中止させられてしまった事例をケースとして書いていた。発表内容を聞けば、それは誰がどうみても経営陣の問題に思える、そんなケースだ。しかし本人は最後に、こう言った。「まだなにか、自分にできたのではないかと思う」と。その苦難の人生は、誰のものでもない、間違いなく彼自身のものだった。

私もそのように生きたい。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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