タイムスペシフィック・アートという思考実験
特定の場所や地域に紐づいて、そこでないと意味を持たないアート、いわゆるサイトスペシフィック・アートがあるが、それに対して、タイムスペシフィック・アートというものがあるとしたらどうだろうか、という話があったので、ちょっと考えてみたい。
時間というのは、空間化されやすい。地層は時間の積み重なったものであり、腐葉土1cmは10年の年月が経ったことの別表現である。また、文化の伝播には時間がかかるため、周縁の地域にはもっとも古い文化が残っていることが多い。京都や奈良の都から一番遠い青森や鹿児島の方言に古語が残っていて、あるテレビ番組では、その離れた二地域では方言でコミュニケーションが取れるという話もでていた。これもまた、時間的な差異が空間的に転写されているとみることができる。
サイトスペシフィック・アートというのは、この点において、すでにタイムスペシフィックであると見ることも可能である。地域に腐葉土のようにして積み重なった歴史性を背景に作られるアートは、100年後には成り立たないかもしれないというスパンでの、タイムスペシフィック性をもつのである。
一方、このサイトスペシフィック・アートがもつ近代批判の文脈を踏襲するのであれば、むしろ時間に左右されないアートこそが、時間の観点における近代批判となりうる、という話もできる。近代というのは、均質で普遍的な時空を前提とする。美術館のホワイトキューブは、東京にあっても、ニューヨークにあっても、アフリカの奥地にあっても、同じような無根拠な空間として、芸術をアートワールドへと包摂するだろう。しかし、このホワイトキューブもアートワールドも、普遍的なものではなく、数多くあるローカルのひとつである。ポストモダンは、普遍的な大文字の歴史の権威を、幾多の小文字の歴史によってずらし、無効化していく。サイトスペシフィック・アートは、この小文字の歴史のひとつである。
この近代の普遍性批判には、こうしたオルタナティブな価値観を提示するやり方と、実はもう一つ、別のアプローチがある。それが、近代そのものがローカルな信念体系であり、それを超える普遍がある、という批判の仕方だ。
杉本博司は、『海景』シリーズは、そうした近代批判と見ることもできる。世界各地の海の水平線を中央に配置し、モノクロームで撮影され、時間の流れや人類の歴史、そして普遍的な風景を探求するこのシリーズは、「古代人が見ていた風景を現代人も見ることができるのか」という問いから始まった。特定の場所で撮影され、その具体的な場所がタイトルになっているサイトスペシフィックな写真である一方で、抽象化・普遍化された時間を写す。地球の数十億年という歴史を感じさせる壮大な作品であり、そのことが近代のいう「普遍性」に対する痛烈な批判となっている。
杉本はさらに、江之浦測候所を設計し、そこで普遍的であり、かつ個別的である時間表現を行う。この測候所は、神奈川県小田原市江之浦の相模湾を望む丘の上に位置し、ギャラリー、屋外舞台、茶室、庭園などで構成され、人類とアートの起源に立ち返ることを目指して設立されたものだ。施設内には、夏至の日の出方向に向けて設計された「夏至光遥拝100メートルギャラリー」や、冬至の日の出方向を指す「冬至光遥拝隧道」など、太陽の動きや季節の変化を意識した建築が配置されている。これらの建築は、古代人が天空を観測し、自らの位置を確認した行為を現代に再現し、訪れる人々に自然や宇宙とのつながりを感じさせることを意図する。杉本が狙うのは、江之浦における夏至や冬至といった個別でローカルな時間にこそ、普遍性が宿るのだというパラドキシカルな表現なのだ。
そのことが、歴史的にも証明されつつあるのが、21世紀である。20世紀に信じられてきた、人権や世界平和などの普遍的価値が、ローカルな価値観によって覆されようとしている。具体的に言えば、ロシアの侵略はプーチンのノヴォロシア思想に基づいているが、それを頭から否定するのではなく、むしろその思想の根源にある、ある種の普遍性(正しいとは言っていない)について、深く潜り込んでいく必要があろう。ロシア擁護として批判されているが、佐藤優のいうプーチンのもつ「内在的論理」も、ローカルな信念のひとつとして、まずは把握する必要がある。
このように、近代批判としてのタイムスペシフィックは、特定の時間にしか成立し得ないアートというところでとどまるのではなく、その奥に普遍性があるのだというところまで達する必要があるのだと思う。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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小山龍介のビジネスモデルノート
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