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能の申し合わせと生命の二重性

今日は能の発表会の申し合わせがあった。申し合わせというのは、本番前のリハーサルのようなものだ。

能は基本的に、本番一回きりの一期一会。とはいえ、流儀によってやり方が微妙に違っていたりするので、シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方など、すり合わせる必要がある。申し合わせでは、プロフェッショナル同士のならではの、多くを語らず、「では、こうしましょう」という判断が即座に行われる。ちなみに、しっかり太鼓、鼓を打って行うものを「打ち合わせ」と言い、これは普段使っている打ち合わせの語源でもある。

優れた舞台を生み出そうとするのなら、綿密にすり合わせたほうがよさそうである。何度も練習を積み重ね、息をピッタリあわせられるまで繰り返す。しかし、能は型があるので、そうしなくてもよい。いや、むしろそうしてすり合わせすぎてはいけないのかもしれない。すり合わせれば合わせるほど、おそらく、本番でズレたときの調整がきかなくなってしまうだろう。

今回は、2日後の11月30日に行われる、私たち素人の発表会のための申し合わせで、舞囃子と呼ばれる、囃子方もいっしょになって上演する演目について行われた。この申し合わせの時期になると、本当に緊張感が高まってくる。私も舞囃子『山姥』を舞うので、この申し合わせに参加することになった。

この申し合わせでは、今までいろいろな経験がある。ボロボロで、本番が本当に心配になったりすることも多い。何度か経験していくなかで、最近では、申し合わせのリハーサルでは失敗することを前提に(本当は良くないが)、むしろその失敗にも動じないメンタルをつくり、そこから大きく崩れないことを意識している。

今回もやはり、ひとつ大きな失敗をしでかした。正面から中央に戻ってから、そのあとに角取りと呼ばれる角への移動をしないといけないところで、その中央に戻る段取りを飛ばしてしまったのだ。ひとつ飛んでいるので、時間もズレてしまう。結果として、20秒くらい無意味に静止する時間が生まれてしまった。「あ、ズレた!」という認識はあり、しかしそのときには、飛ばしてしまったことには気づいていなかった。

昔であれば、そこで取り乱してしまっただろう。ズレを修正するには、忍耐強く待つ必要があるのだが、以前であればそのまま先に進んでいってしまったかもしれない。全体がどんどん先へとズレていく。それは、かなり壊滅的な結果をもたらす。しかし今回は、(自分が失敗しておいて、胸を張っていうことでもないのだが)そこでじっくり待って、タイミングを調整することができた。

能の型には、ちょっとした空間的な余白や時間的な間がある。この余白と間が、型を生き生きとしたものにしている。トラブルがあっても臨機応変に対応できるのが、この余白と間だ。日本の文化は、モノそのものよりも、そのモノを取り巻く余白と間の芸術でもある。詞章の意味がしっかり捉えられると、地謡の謡に動かされていく感覚になる。

これは、清水博の場の理論における「自己の卵モデル」にも通じるように思う。黄身としての自己を、白身が包んでいるのだが、この白身の部分は他者と共有される「偏在的な場」である。黄身は自律的に動きつつ、一方でこの共有された白身にも影響される。能舞台には、さまざまな演者との関係の中で、この偏在的な場としての空間が生まれ、そのなかで役者が動き、動かされているのである。

清水博『場の思想』東京大学出版会

清水は、黄身と白身、能で言えば、演者と能舞台をあわせた場も、また生命だと捉えるべきだと考えた。二重存在としての自己が、清水の場の思想の核心のひとつであろう。

スポーツをしている人であれば、考える前に体が反応して動いた経験をしたことのある人も多いだろう。能舞台では、それが常に起こりつづけているような時間と空間を生み出そうとしているのだと言えるのではないかと思う。申し合わせひとつとっても、そこには生命としての舞台を生み出す、歴史に裏付けされた知恵がつまっているのだ。

【広告】2024年11月30日は水道橋の宝生能楽堂で発表会がある。10:30から開催されている。無料なので、ぜひ見に来てほしい。件の『山姥』は、16:20以降の上演の予定だ。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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