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高速の情報編集という非・身体性

もうすこし松岡正剛の思い出話を書いてみたい。編集工学研究所のイベントで、トイレに行ったらたまたま松岡さんといっしょになって、そのときちょうど「ハックシリーズ」が売れていたこともあって、その話になった。「やはり、ああいう(簡単にわかりやすく書いたもの)が受けるんだねぇ」と松岡さんはおっしゃった。編集学校出身者の活躍を喜んでいらっしゃった感じだった。一方で、今から思えば、松岡さんのポジションではライフハックのような軽いタッチのものは出せないのだということでもあった。

ハックシリーズは、方法論に特化した書籍だった。これは松岡さんが、「これからは主題ではなく、方法の時代だ」といったものに呼応したものだった。人権や世界平和、環境保護などの主題はさまざま出尽くしたが、肝心の、それをどうやって達成するかという方法が十分に議論されていない。だから徹底的に方法だけを書いた。ただその本質は編集工学にあった。仕事の効率を高めることよりも、仕事の創造性を高めたり、松岡さんっぽく言えば、高速に、そして刺激的な情報編集を目指したものであった。

編集工学、すなわち、あらゆるものが情報であり、それらを関係づけていくかという情報編集が重要である、という松岡正剛の切り口について、すこし書いておきたい。私は、そこに違和感を感じ続けていた。本質的なところで、その情報を乗せる媒体の物質性について、実は、十分に関心を払っていなかったのではないかと思う。

これはかなり乱暴な指摘で、雑誌「遊」の編集もそうであったように、コンテンツをどのような媒体に乗せるのかということに自覚的であり、さまざまな実績を残してきたことは間違いない。編集術の中でも、たとえば「編集にはメッセージ(Message)とメソッド(Method)とメディア(Media)という三つのMが一緒に動く」というような言い方で、頻繁に語られていく。だから、こんな批判は的外れだ。そういう人は多いだろう。

しかし、その物質性に関する無関心が如実にあらわれたのが、自身の身体への無関心であった。ガンを患った前後のタイミングだったと思うが、控室で着替えをしている松岡さんの体を見て、舞踊家の田中泯さんが「そのからだでは、松岡さんだめだよ」と言ったという。情報が高速に行き交う松岡さんの頭脳は、しかしあの身体がなければ機能しない。不夜城として有名であった編集工学研究所自体も、身体の休息について無関心であった。それでも80歳まで生きるたのだから、本当にすごい。しかし、タバコを含め、身体へのケアは十分ではなかったという指摘に、反論する人はいないだろう。

松岡さんにとって身体とは、情報を取ってくるインターフェイスであり、脳に従属するものであったように思う。もちろん、そんな陳腐な批判は織り込み済みなので、文章を探ればすぐにその反論は見つかるだろう。しかし、印象として、そう感じるのだ。

前回の記事で、松岡さんを自力の人と書いた。それは、脳の自力であった。身体に揺さぶられるような他力ではなく、身体を脳が手なづけていた。そしてその身体が接している環境に対しても、影響を受けることはなかった。東京丸の内の書店に展開された松丸本舗は、経済的にはうまくいかず、失敗に終わった(こう書くと怒られるが、続かなかったというのはそういうことだ)。古今東西のさまざまな知と接続する書棚はたしかに高速で刺激的だった。しかし、丸の内の社会人たちの身体につながっていかなかった。彼らの欲望に接続しなかった。経済から離れたところでの遊戯であった。「編集者」として、丸の内という場を読み違えていた。

この浮遊感が、しかし松岡正剛の魅力でもあった。経済感覚がなかったわけではない(親の借金を返すなど苦労もされた)。ただ、そういう俗世につながってはあの速度はでなかった。

松岡正剛の、歩く速度の文章を読んだことがなかった。常に跳躍していた。社会人の欲望に接続したライフハックは受けたが、それでは松岡の遊学は羽ばたかないのだ。改めてそう感じた。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

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