記号は、どこに接地するか
記号接地問題は、1990年に認知科学者のスティーブン・ハルナッドによって提起された。記号が他の記号との関係だけで意味を持つことはできず、どこかで実世界の経験に「接地」していなくては、意味を持たないのだ、という議論だ。
ハルナッドは、シマウマを例にあげた。シマウマをみたことのない人でも、馬にしま模様があれば、シマウマだとわかる。それは、私たちがシマの意味を経験的に理解しているからであって、ただの文字列として処理するコンピューターではこうした類推ができない。この問題提起は、記号操作でアウトプットするAIの限界を示すものとして、注目を集めた。
しかし昨今のAIは、実世界をかなり経験している。特に視覚は、人間以上の経験が可能となっており、人間では見えないような暗闇での対象認識もできるし、生成AIで自動運転するシステムもでてきている。私たちは視覚を通じた外界の認知を経験のひとつと捉えているが、もしAIを記号接地問題で退けようとすれば、視覚的に認知するだけでは経験ではない、とするしかなくなる。
すでに聴覚は獲得しており、今は触覚が加わろうとしているところだ。嗅覚を身につけるのも時間の問題だろう。こうして実世界でのセンサー情報を獲得したAIは、それでもなお、記号接地問題を超えられないと言えるのだろうか。
名古屋商科大学ビジネススクールで取り入れているケースディスカッションについて、「ケースを通じて、実世界に触れられるので、記号接地した学習ができる」という議論もある。個人的には、そうは思わない。ケースは結局、記号の集積であり、その記号を現実に設置させられるかどうかは、その人の個人的な素養に負っている。
私が感じているのは、ケースディスカッションを通じてこの個人的素養の差が出てしまう課題をどのように解決すべきかという問題だ。「中間管理職の苦労」について、現実に接地する人とそうでない人と、ケース体験があまりに大きく変わる。
この問題をひっくり返すと、こういう言い方もできる。いくら記号的に学んだとしても現実に接地しなければ、「わからない」。つまり、「経験していないからわかりません」という話になってしまう。こういう言い方には、率直に言って腹が立つ。その程度の経験を超えてみせよ、というのが、教育だからだ。
あるとき酔っ払った学生に絡まれた。「なりゆきで教授になって、適当にやっている人に、私の苦しさはわからない。お前がどれくらい苦労したのか語ってみせろ」というのだ。彼女は、過去にトラウマになるような体験をしており、その苦しい経験でマウントをとってきた。彼女の苦しみという記号は確かに現実に接地しており、私が言うときの苦しみは(彼女に言わせれば)現実に接地していないということになる。記号接地問題は、こういう経験主義に陥ってしまう。彼女には同情はするが、それでマウントを取るのはやめたほうがいい。経験に振り回されているだけだ。
以前の記事にも書いたように、身体を使って演じる能の舞台では、身体と現実のインターフェースを研ぎ澄ますことによって、別のレベルの記号接地を実現しようとする。禅をアーキタイプに持つ能は、深層心理(仏教で言うところの阿頼耶識)へ直接的にアプローチしようとするのだ。
仏教は、さまざまな経験を幻想と捉えて退けつつ(色即是空、空即是色)、経験や行動が種子(しゅうじ)として蓄積される阿頼耶識こそが問題であるとして、それを薫習(くんじゅう)する。香りが衣装に染み込ませるようにして、行為や思考を阿頼耶識に染み込ませていく。能がやっているのは、この熏習である。
このように、記号接地問題は、仏教においては、記号の阿頼耶識への接地問題なのである。こうした仏教的記号接地トレーニングを、(ケースメソッドとは別に)行う必要があるのではないかというのが、今のところの私の仮説である。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師