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前世はあるのかどうか問題

前世があるのかどうか、という問題について、プラグマティックに考えてみたい。というのも、科学的にこの問題を解決しようと思っても、もちろん「わからない」というしかないからだ。反証しようのない命題について、ポパーは科学的ではないと考えたが、これもそうした反証不可能なものだからだ。

「プラグマティックに」というのはつまり、その真偽を一旦棚上げしたうえで、そう考えたほうが有用かどうかということを問う、というものだ。たとえば、前世があるということは、来世も想定され、この世の因果が持ち越されるという想定をすれば、人々は道徳的に振る舞うはずだ、というようなことだ。「前世があり、その因果が持ち越されたほうが、個人がより善く生きることができるので、有用である」というのが、プラグマティックな結論である。

そのうえで、前世問題だ。前世問題を少し言い換えて、「新たに生まれてくるときに、目的を自覚して生まれる」という問題に設定したい。人間の人生は、科学的に見れば、卵子の受精により生まれた偶然の産物である。その偶然による人生の無意味さに耐えられず、根拠のない理由を探るのは、人間の弱さのように思われている。「私はサッカーをやるために生まれてきた」などと言おうものなら、思い込みだろと心のなかで突っ込む人も多いだろう。一方でこうした思い込みが人の人生の原動力になることも、否定しがたい。プラグマティックに考えれば、後者の効用を重視することになる。

たとえば、たいへんな苦難が待ち受けていたとする。それはまったく不可抗力で、自分では避けがたい悲劇だったとしたら、それは受け入れがたい。そのことで人生が狂ったのだと、常にその悲劇のせいにしながら生きていくことになるかもしれない。なんせ偶然なのだから、他の誰かにそれが起こって自分には起こらなかったら、もっと幸福な人生が会ったはずだ。そう考えるのが普通だろう。

しかしそれは、残りの人生を生きていくうえでは、あまり得策ではない。このとき、もしこの悲劇を自分が選んで生まれてきたのだという仮定をおいたらどうだろうか。私はこれを乗り越えるために生まれてきて、ここに人生の意味があると考えるのだ。もしくは乗り越えなくても、その悲劇とともに生きることに意味があるのだとしたらどうだろうか。「どういう意味があるのか」という問いは、深い思索のきっかけにもなるかもしれない。

手元の近位項で起こっていることの意味は、遠位項に意識を向けることで理解できると考えたのが、マイケル・ポランニーであった。明晰な因果関係ではなく、暗黙のうちに意味を理解してしまう思考の働きに、ポランニーは科学的発見につながるルートを見出した。永遠に解明が不可能な「生まれてくるときに自分が定めた目的」というものが、手元で起こることの意味を教えてくれるというのも、この暗黙知の働きのひとつであるようにも思う。

今からする話は、ある公の場で話をしてひんしゅくを買ったので、判断はみなさんにお任せしたいのだが、人生の目的を定めて生まれてきたと想定すると、障害を抱えた人たちは、その障害を選んで生まれてきたということになる。私は、そうした人たちに同情なんかしない。むしろ、その勇気と決断に対して尊敬の念を持つのだ、と。どんな人に対しても、この世に目的をもって生まれてきたと考えれば、その目的遂行に手を貸したいと思う。それはどんな悪人であっても、だ。親鸞の悪人正機説は、これとは違うロジックだが、私にとってみれば、同じ論理だと思っている。

いずれにしても、私にとって「目的をもって生まれてきた」という想定が、自分自身に降りかかる困難に向かい合い、他人をリスペクトするために効果があり、有用であるというふうに思っており、プラグマティックな観点から、これを信じることとしたのである。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

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