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ビジネスモデルの再魔術化

それまで神が関心の中心であったのに対し、デカルト以降、思う「我」へと関心が移り、そこから経験論を経て、存在論へと回帰する流れがある。神のような超越的な視点から世界を解明するのではなく、私という個人から世界を捉え、その世界の中にいる私を位置づけ直すことになった。

これは例えば、マックス・ウェーバーのいう脱魔術化とはまた違うものだ。神の絶対性が崩れ去り、科学による合理的な説明がなされてきたが、その説明とは、神と同じように超越的な視点―科学的な客観性―からなされたものであった。神の立場に科学が置き換わっただけであった。新しい神となった科学は、宗教が担っていた〈意味〉の世界を駆逐し、ニヒリズムをもたらしたというのがニーチェの主張であった。

存在論への転回は、モリス・バーマンに言わせれば「世界の再魔術化」であった。彼は『デカルトからベイトソンへ』の中でベイトソンの思想を紹介する中でポランニーを取り上げ、「ポランニーにとっては、個人的でない、「客観的な」知などというものはありえない。何かが知られるとき、そこには必ず意味というものが知る人を巻き込む形で生起している」と分析する。続けて「知る者は知られる対象のなかにつねに包含されるのだと言ってもいい」と書く。

世界を、科学的なシステムではなく、ポランニーのいう暗黙的な、創発的なパターンを生み出すものとして捉え、そこに巻き込み、巻き込まれる自己を、ベイトソンは想定した。ウィーナーのサイバネティクスがそこにはまった。それは、その後の複雑系を予見させるものであった。合理的に、客観的に説明のつかない再魔術化。その魔術をどうにかして取り扱えないか。その後のネットワーク理論やオートポイエーシスなどが、その魔術に取り組んだ。

その魔術の分析は、ただ基本的には、〈場〉をシステムとして捉えることによって成し遂げようとされた。

「システム」と捉えるとき、そこにはどうしても俯瞰的な視点が想定されているように感じてしまう。オートポイエーシスの「インプットもアウトプットもない」という特徴が、なかなか理解し難いのも、「システム」としてみたときに、無意識のうちにシステムの境界を設定してそこに出入りを見出してしまうからだろう。生命と環境の内部から見なければ、「インプットもアウトプットもない」という話は理解できないように思う。そこでは、生命は環境と相互作用しながら、自身を自己生成・維持していくことになる。こうして環境と相即する中で、「インプットもアウトプットもない」ということになる。

こうした観点から、ビジネスモデルというものを捉え直すとどうなるだろうか、というのが、私の問題意識だ。現状のビジネスモデル概念は、機械論的にすぎるように思う。ビジネスを動かしているのは人間であり、そこに〈精神〉が舞い込む余白が大きくある。特に新規事業などはそうだ。たとえば、「起業家の思い」のような主観的なものが、ビジネスモデルの中核をなすこともあろう。そして、その思いは固定的なものではなく、環境との相互作用の中で変容し、進化していく。この動的なプロセスこそが、ビジネスの本質ではないだろうか。〈場〉におけるビジネスモデルとは、環境との相互作用の中で創発的に生まれ、そこに参加するステークホルダーの主観が色濃く反映され、複雑な文脈を織りなしながら生成変化していく。にもかかわらず、現在の一般的に語られるビジネスモデルは、静的でありすぎる。

ビジネスモデルを再魔術化する。これが当面の目標だ。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授

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