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クロックタイムの登場と鉄道普及

ジョン・アーリのモビリティの議論は、それまで空間的にスタティックに捉えられていた社会構造を、都市内や都市間の移動の観点から捉え直す、移動論的転回をもたらした。その議論は、徒歩から自動車、鉄道や航空ネットワークまで多岐にわたるが、今日はその中でもクロックタイムと鉄道の関係に触れてみたい。

客観的で、文脈から切り離された時間、いわゆるクロックタイムは、実は鉄道登場以前にはそれほど浸透していなかった。村や町ごとに時間がズレており、人々の生活のリズムはむしろ、日の出日の入りといった太陽の運行によって刻まれていた。クロックタイム(クロノス的時間)に対比して、カイロス的時間と呼ばれるその時間の流れは、経験の質によって柔軟に変化する主観的な時間であった。

誰しも、集中しているときにはあっという間に時間がすぎることを経験するだろうし、たいくつしているときの秒針の遅さも実感しているだろう。カイロス的時間は、そうした伸縮自在の時間であり、すこし話はそれるが、能の舞台で流れているのもそうしたカイロス的時間である。ゆっくりとした所作が、実はもっとも速い、といったパラドクスが、能舞台では起こっている。

ともあれ、そうしたカイロス的時間からクロノス的時間へと支配が移った契機が、鉄道の普及であった。最初の時刻表と言われているイングランドの『ブラッドショー鉄道時刻表』が出版されたのが1838-9年である。鉄道を正しく運行するためには、町ごとの時間がずれていてはならない。客観的な時間によって、正確にコントロールされる必要がある。

以降、私たちは、冬の朝早く、まだ暗い中を鉄道の時間に合わせて出勤するようになったし、まだ明るい夏の夕方に、これもまた鉄道の時間に合わせて退社することになった。

私たちが田舎に行くとき、「鉄道が1時間に1本しか来ない」という話をするが、これはクロノス的時間がここには浸透し切っていないということを示している。鉄道が来ないあいだ、田舎にはゆったりとした時間が流れる。久々に感じるカイロス的時間に、都会の人々は癒やされるのである。

カイロス的時間は、直線的ではなく、円環的である。この風景はもしかしたら明治時代から変わらないかもしれない。そういう歴史的重層を実感させる時間だ。杉本博司はそれをさらに古代まで重ね合わせ『海景』シリーズを撮影した。

鉄道が普及していない地域においては、まだこうしたカイロス的時間が残存する。たとえば沖縄は、ゆいレールが通っているものの、その地域はごく一部に限られる。打ち合わせのアポイント時間も厳密ではない。ちょっと待たされることも、豊かな沖縄体験を支えていたりする。ここに鉄道がくまなく通ると、クロノス的時間がしっかりと浸透していくに違いない。

最近では、スマホの地図アプリの時間がかなり正確になってきて、自動車での移動においてもクロノス的時間が侵食しつつある。「ちょっと渋滞で遅れます」というその遅れも、かなり正確に予測できてしまう。こうした中で、どのようにしてカイロス的な時間を確保すればよいのだろうか。そこに、大げさに言えば、実存的な問題が存在するのかもしれない。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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