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能『山姥』におけるメタシアター構造

能『山姥』は不思議な曲だ。山姥が山廻りする様子を描いた舞で有名となった遊女のところに、本当の山姥が現れ、「何年も自分のことを謡いながら、私のことをまったく気にかけてないことはどういうことだ」と恨みを言う。そして日が暮れるのを待って、異形の姿となった山姥が再びやってきて、舞を舞う。

この遊女は、世阿弥だ。世阿弥自身、平家物語などの、無念を抱えた人物を舞台に召喚し、その人物となって舞うことで人気を得てきた。しかし、本当にそうした人物たちのことを気にかけてきたのだろうか。彼らからの恨み言を山姥に言わせるのである。自身の作劇手法を取り上げ、自身で批判する。いわゆるメタシアター構造が組み込まれているのだ。

この山姥でも採用されている世阿弥の発明した複式夢幻能という能の形式も、メタシアター的である。能という舞踊劇の劇の中で、舞が行われる。劇中劇のようなかたちで山姥が舞う。この二重の枠組みの中で、まるで合わせ鏡のように物語が二重三重にイメージを積み重ねる。能の幽玄は、このメタシアター構造が生み出している側面も大きい。複式夢幻能とは、いわばメタフィクション手法なのである。

私の大学の卒論では、フェリーニにおけるメタシネマ構造を取り扱った(黒歴史)。フェリーニは映画の中に、「これは映画であり、フィクションである」とはっきりわかるようなフィクション性を組み込んできた。その最たるものが、映画監督の苦悩を描いた『8 1/2』であろう。

このメタシネマ構造は、処女作から見られるものであったが、その手法がはっきりと意識されたのは、おそらく『道』であろう。主人公である女性大道芸人ジェルソミーナを演じたのは、フェリーニの妻であるジュリエッタ・マシーナであった。ジェルソミーナは旅芸人のザンパノに売られ、大道芸をやらされる。映画の中で、夫であるフェリーニに「見世物」にされるジュリエッタ・マシーナという構造が映画の中で繰り返されている。

ジュリエッタ・マシーナの演技はほんとうにすばらしく、先日改めて見直してみたのだが、何度も見ているにも関わらず、また初めて見たときのような衝撃を受けた。そして、旅芸人による道行の場面なども含め、どこか能のような印象を受けた。それは、ここに世阿弥の能と同じような、ある種のメタフィクション構造が取り入れられているからでもあろう。一般的には、『道』はネオリアリズム映画として分類されるが、むしろその虚構性に強く惹かれる。

世阿弥の人生もまた、能のようでもあった。詳細は不明だが、佐渡に流刑にあう。72歳のことであった。彼自身が怨霊となってもおかしくないような悲劇だが、このことは、世阿弥が能楽の始祖として位置づけた秦河勝の運命にも通じるものであった。聖徳太子の命により舞ったのが「申楽」の始まりであり、それが能楽になったというのが、世阿弥の説である。

聖徳太子が亡くなったあと、聖徳太子の一族は滅亡させられ、聖徳太子は怨霊となったというのが梅原史学であるが、秦河勝も(『風姿花伝』に書かれた伝説によれば)赤穂に流れ着き、大避大明神となった。梅原は、怨霊化した秦河勝の鎮魂であると直感した。そして世阿弥もまた、秦河勝から転写された運命を生きることになった。

禅への理解を示唆する『山姥』はおそらく、晩年の作だと言われている。佐渡に流されることになる自身の人生を予感しながら、自身を先んじて鎮魂する作品ととらえる深読みをしてみたい。「山を廻る」山姥もまた、世阿弥であった。「山また山に山廻りして行くへも知らずなりにけり」という結語には、彼自身の人生が通奏低音のように鳴り響いているのである。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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