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フィルモグラフィーと人生の決着
かつて、巨匠と呼ばれる映画監督は、常にフィルモグラフィーを意識しながら映画を撮っているものだと言われた。
北野武は、『ソナチネ!』で国際的な評価を決定的なものにするが、その後、性的妄想に囚われた男が主人公となる『みんな〜やってるか!』という破滅的な映画を撮影する。そして自身も、この映画の撮影後にバイク事故を起こし、顔面麻痺の残る重症を負う。
その事故から復帰後の最初の作品『キッズリターン』では、映画の最後に主人公たちを自転車に乗せて、「俺たちもう終わっちゃったのかなぁ?」「バカヤロー、まだ始まっちゃいねぇよ」というセリフを言わせている。バイク事故を二重写しにするこの演出は、フィルモグラフィーと人生とがシンクロさせながら物語を紡ごうとする、ひとつの例だろう。
かつて撮った映画の続きを、その後の映画で描くことも多い。アカデミー賞作品賞を受賞したクリント・イーストウッドの名作『許されざる者』では、顔にナイフで傷をつけられた娼婦の敵討ちを引き受ける男ウィリアム・マニーを演じる。この町ではこうした敵討ちは禁止されており、それを引き受けようとする人間には容赦ない刑罰が、保安官から与えられた。マニーの親友も保安官に殺され、さらし首になった。マニーは、娼婦と、そして親友の尊厳のために保安官一派を容赦なく殺す。その迫力に圧倒される。
そして、マニーが暗闇の中、町を立ち去るときに、彼の背後に星条旗がたなびくのだが、そこに保守派としてのイーストウッドの主張を読むというのが、当時、京都大学助教授であった加藤幹郎先生の授業での話であった。なつかしい。日本映画学会初代会長を務められたあと、63歳の若さで亡くなられた。
1992年公開の『許されざる者』から12年後の2004年、アカデミー賞4部門を獲得する『ミリオンダラー・ベイビー』では、ボクシングのセコンド役フランキーを演じる。彼はもともと止血係であり、ボクシングの試合で傷ついた主人公の女性ボクサー・マギーの顔の傷からの出血を、職人的な手さばきで止める。
これはもちろん、『許されざる者』に対する、自らの応答だ。顔を傷つけられた娼婦に対して、保安官たちを殺すことで尊厳を守ったイーストウッドは、今度は傷からの出血を止めることで、彼女の尊厳を守ろうとするのだ。マギーは、イーストウッド演じるフランキーに全幅の信頼を寄せる。
しかしそれも、長く続かない。この映画は(ネタバレになるので具体的には書かないが)悲劇的な結末を迎える。フランキーは、出血を止める職人的な手さばきと同じ迷いのない手つきで、マギーに対する重大な処置を行う。銃口を保安官に向けた『許されざる者』に対する、ひとつの決着の付け方なのかもしれない。『許されざる者』と『ミリオンダラー・ベイビー』は、お互いの引力で引き合って周回する連星のように、映画史の中で並んで存在している。
しかし、こうしたフィルモグラフィーの話は、昨今、あまりなされない。北野武もイーストウッドもその後、おそらく本人たちが思っていた以上に作品を作り続けることになり、美しいフィルモグラフィーを構築するには、区切りのつけづらい状況になっているように見える。過去の作品のオマージュを散りばめた『君たちはどう生きるか』で終わるはずが、さらに『ナウシカ』の続編に取りかることになってしまった宮崎駿も、そうだろう。それでもいつかは終りが来る。
この文章も終わりがつけられずにいる。本当に困ったことだ。結局最後まで、決着なんてつけられないのだ。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
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