丹波篠山に作家が集まる理由
丹波篠山といえば、丹波焼。そのメッカである今田(こんだ)地区では今でも、約60の窯元が軒を連ねている。河井寛次郎やバーナード・リーチも魅せられた丹波焼だが、たとえば釉薬を使用しない土そのものの色を味わう備前焼のような、明確な特徴があるわけではない。よくも悪くも、時代にあわせてさまざまな生活のための器を作り続けてきた産地だ。
この丹波篠山には、現代作家もたくさん移住し続けている。陶芸作家だけでなく、ガラス作家や革作家、ジュエリー作家、さらに腕利きのシェフなど、多様なクリエイターたちが集まっている。その横の連携を生み出そうと、作家の個性を尊重しながら緩やかに連携していく「クラフトビレッジ」などの取り組みも進んでいる。
どうして丹波篠山に集まってくるのだろうか。そこにはおそらく、地政学的な秘密があるのだろうと思う。今田地区は、山に囲まれた山間に広がっており、美しい山の稜線が目に入ってくる。今の季節は紅葉に染まり、作家たちにさまざまなインスピレーションを与えている。
しかし、こうした自然の風景だけで、作家が集まる理由を説明できるとは思えない。私には、文化的な中心地からの適度な距離に、その秘密があるのではないかと思う。
実情は知らないのでいい加減なことは言えないが、備前焼は、その強烈な個性故に、そこから外れることに対するプレッシャーが相当強いのではないかと思う。「備前焼」の名前で、釉薬たっぷりかけるということはできないだろう。この強烈な個性は、藩による保護の影響も大きかった。
たとえば、岡山藩主池田光政は、備前焼の品質と名声を維持するために「御細工人制度」を設けた。この制度下で、窯元六姓と呼ばれる六つの家系にのみ、備前焼生産の許可を与えた。また、品質管理も行われ、将軍家や諸大名への贈答品としてふさわしい優れた工芸品としてその品質が追求されたのである。
一方の丹波焼はどうだっただろうか。距離的にも少し離れた場所に、篠山藩の城下町があるが、貧乏な藩として知られていた。重税を課すなかで一揆も多発し、農民の条件を飲まざるをえないほど、権力は弱かった。そうした環境で、丹波焼は自立自存で継続してきた。
京都からの距離も絶妙だった。京都や大阪と接する亀岡市(丹波亀山藩)は、同じ丹波地域にあっても、文化的には京都、経済的には大阪の影響を無視することはできなかった。今でも京野菜の産地である亀岡は、ある意味、京都ブランドに依存している。一方、丹波篠山は、京都や大阪との交易も当然行われたし、その地理的重要性から譜代大名が配置されたが、その重要性は亀岡を超えることはなかった。
江戸や京都、大阪、金沢などの文化的、経済的に強い重力をもつ場所からの距離は、産業形成にあたって大きな影響を与える。丹波篠山ののんびりとした時間の流れは、そうした重力の及ばない場所ならではといえるだろう。
今日は、AOBA POTTERYで器を買った。スリップウェアという伝統的な工芸手法を使いながら、現代的なグラフィックセンスを取り入れる感覚が、いかにも丹波篠山らしく感じる。重すぎる重力から逃れつつ、伝統へのリスペクトを払うこのバランス感覚は、丹波篠山だからこそ可能になるのではないか。丹波篠山に作家たちが集まる理由について、今のところ、そんな仮説を立てている。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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小山龍介のビジネスモデルノート
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