能舞台と「おのずから」
能舞台というのは、実はサイズが微妙に異なっている。三間四方とされているが、たとえば畳の大きさも地方で異なっているように、能舞台ごとにサイズが若干異なっている。京間三間四方といえば、約6メートル。江戸間三間四方であれば、約5.5メートル。そうした縮尺にも合わないサイズの能舞台もある。
スポーツで言えば、先日のサッカー日本代表が中国戦で、少し狭いピッチで戦うことになって、かなり苦労したという話があった。おおよそ身体感覚としてサイズを把握しており、これは外に出るな、とか、これは入りそうだ、といったことを、先週が数センチ単位で把握していたとしても驚かない。しかし、能では50cmもの違いがあるのである。
この違いをどうやって調整するのか。同じ三足であっても、幅を調整したり、またときには五足でることで合わせたりする。舞台に合わせて伸び縮みさせることのできるのが、能のスケールの面白さだろう。
謡の速度も、また謡の高さも、その都度違っていたりする。女性が加わる小謡では、女性も謡いやすいように少し高く調整したりする。シテがその高さで謡えば、参加者はその高さに合わせていく。仕舞のときに、素人はつい、速くパタパタと動いてしまうのだが、地謡の先生方はその速さに合わせて、謡の速度を調整してくれる。このとき、舞っている本人は、先生方の謡が速くなっていることに気づいて、「ああ、速く動きすぎている」と自覚するのだが、そのことでかえってまた、ドタバタする。焦りが焦りを生むのだ。
とにかく、能は、舞台が生き物であるということを前提に、というか意識して作られたパフォーミングアーツであるように思う。自由自在、臨機応変。能の舞台の楽しみは、こうした伸縮自在の空間変容、時間変容にあるように思う。
先日から、ストア派に興味を持っている。それはストア派の、自然の法則にしたい自分の役割を果たすことで幸せになれるのだという思想や、情念や欲情に支配されない平穏な状態=アパテイアを目指すという態度が、たとえば日本の仏教や禅宗の態度に通じるものがあるのではないかとも思ったからだったのだが、しかし、(当たり前だが)根っこのところが違う。
ストア派の自然とは、宇宙であるが、日本の思想における自然とはそうした超越的なものではなく、三間四方にあるものだ。その限定された空間に、無限定の宇宙が立ち現れ、そして消えていく、複式夢幻能の仕組みのなかで、役者と演者が調和する。
また、ストア派が理性(ロゴス)によって感情(パトス)を制御しようとするのに対して、たとえば能は、能舞台に情念を出現させて、それを場の力を借りて鎮魂する。ときに念仏の力を借りながら、おのずから情念が消滅していく。ストア派が「みずから」制御しようとするのに対して、日本の思想は「おのずから」そうなっていくのである。
今回の舞囃子『山姥』でも、仏教の哲理によって山姥が成仏していく。山を廻りながら、山姥は行方知れずとなっていく。そこに残るのは寂寥であり、「おのずから」成り立つ調和である。能の世界において、登場人物や情念が消えゆくというのは、単に物語の終わりを意味するものではない。それは、舞台全体がひとつの生命として「おのずから」呼吸し、生成し、そして消滅していく過程を象徴している。山姥がその存在を超えて成仏し、山へと溶け込む姿は、能という芸術が描く宇宙観そのものである。
三間四方の舞台は、単なる物理的な空間にとどまらない。そこに織り込まれる音楽、謡、動作、そして観客の想念が、時間と空間を越えて調和し、ひとつの全体性を生み出す。能舞台は、自然である。その自然に私たちはおおらかに、ゆるやかに合わせていく。こうした能独特の世界観を深く味わうことで、私たちは画一的な近代的時空から一歩離れ、自分自身を自然の一部として見つめ直すことができるのではないだろうか。
山姥が行方知れずとなり、ただ山の風が残る。それは、情念が鎮まり、宇宙がひとつの静寂へと還る様を象徴している。能舞台の広がりの中で、「おのずから」感じ取れるこの調和は、現代においても大きな示唆を与えてくれるだろう。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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小山龍介のビジネスモデルノート
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