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テクノロジーの進化とネオテニー化

テクノロジーが進めば進むほど、テクノロジーがなかった時代への憧憬が高まる。というのも、文明によって、人類は、それまで持っていた能力を少しずつ失っていくからだ。縄文ブームが続いているが、縄文の暮らしに憧れるのも、そうしたテクノロジーの進化によるものだ。彼らは、銃も、高度な罠もないなかで、狩猟生活を行っていた。ほんとうにすごい。

そうした例は、今でも起こっている。携帯電話がないときに、私たちがどのように生活していたのか、もはや記憶の向こうだろう。携帯電話があれば何も計画をたてなくても、連絡を取り合いながら落ち合うことができる。しかし、携帯電話がない時代には、これから起こることを想定しながら、待ち合わせの場所と時間を決め、電車の遅延など不測の事態が起これば、それを織り込んで長めに待ったりする。その対応能力は、すっかり失われてしまったのかもしれない。スマートフォンはそこからさらに、輪をかけて私たちを無能にしている。

このように、テクノロジーが進めば進むほど、かえって過去の文明に対する憧憬が深まっていく。そのことを、昨日の記事では書いた。今日はその逆のことについて、触れてみたい。

私たちはテクノロジーを活用することによって、どんどん無能になっていく。そうすると、未成熟のまま生きていけるようになる。昔の生活では、生活上のさまざまな知恵を身につけながらおとなになっていった。明治維新は若者の手によって成し遂げられたが、その当時の20代はほんとうに大人びている。テクノロジーによって、子供っぽくても生きていけるようになってきている。

こうした幼児退行に関連する言葉として、ネオテニーというものがある。これは、幼生や胎児の特徴が、成体になっても残っている現象であり、幼体成熟とも呼ばれる。たとえば、サルとヒトでは、人のほうがネオテニー性をもっている。サルはおとなになると口が前に突き出してくるが、ヒトはサルの幼児の平面的な顔つきとよく似ている。裸になったサルとしてのヒトは、本来おとなになって体毛が体中を覆うべきサルが、胎児のままでいる、ネオテニー状態なのだということもできる。

人間は、サルの幼児に近い

このネオテニーは、生物学的な利点として、環境に対応するときの柔軟性が高まるということが言われている。成熟すればするほど、その環境に適応すればするほど、環境変化に弱くなる。未成熟であるがゆえに、学ぶことができるのである。たしかに、明治維新の頃の志士たちに比べて、現代の若者は成熟していないように見える。しかしこれは、変化の激しい環境においては、むしろ利点でもあるのだ。

つまり、幼児性を残すというのは、ある種の生物学的生存戦略なのである。サルよりも複雑な社会で生きるヒトは、おとなになっても幼児性を残すことで、環境に柔軟に適応し、生き延びてきたのである。

AIによって思考することさえ手放した人類は、さらに幼児退行し、未成熟のままおとなになり、その結果、もしかしたらなにかの環境変化に対応できるようになるのかもしれない。その変化の渦中にいる私たちには見えていない利点があるのかもしれない。

小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師

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