バークリーと考える記号接地問題
実際の経験に接地していなければ、記号の意味がわからないというハルナッドの問題提起は、実は古くて新しい問題だ。18世紀のイギリスにおいて展開した経験論で議論されたのは、まさにこの接地問題であった。机に触れてその存在を確認したとしても、そこで確認できるのは机という実体ではなく、そこで得られた知覚だけだ。バークリーは、「事物が存在するということは知覚されているということ(esse est percipi)」であり、知覚を離れて存在することは不可能だと結論づけた。経験論は、記号接地問題よりも、より徹底的に接地の問題に向き合ったのだ。
イギリス経験論の立場からすれば、人間こそ、現実の経験に接地せずにふわふわした議論を繰り広げている。記号接地問題で批判されるべきは、AIではなく、実は人間のほうなのだ。そしてバークリーは、「抽象化」することに問題の本質があると考えた。
バークリーは、ジョン・ロックに批判するかたちで、ものごとを抽象化することはできないという批判を行った。たとえば、たくさんの人と会うなかで、「人間」という一般的な観念ができあがるようにみえる。しかしこの一般的な観念である「人間」を人が思い浮かべるとき、どうしても具体的な個別の人間、たとえば、日本人であれば黄色い肌のアジア人だろうし、白人は白人を、黒人は黒人を思い浮かべてしまう。結局、このように個別の具体的な像を思い浮かべざるをえない。抽象観念は、厳密には、観念そのものを感覚できない。つまり、人は「抽象化」などできていないのだ。
にもかかわらず、抽象観念が存在すると考えたのは、ジョン・ロックの錯覚だ、とバークリーは主張した。しかし、バークリーの本当の敵は(同じ経験論を主張する)ロックではなく、実は難解なスコラ哲学であった。抽象観念に対して難渋な議論を積み重ねてきたスコラ哲学は、「きわめて長きにわたって大変な労苦、努力そして才能が学問の陶冶と発展に費やされてきたにもかかわらず、学問のほとんど大部分は暗愚と不確実性に満ちたまま」(バークリー『人知原理論』)なのであった。
この考えから導かれるバークリーの記号理論は、独特のものだ。バークリーは、視覚的な観念が他の感覚と結びつき、そこから新しい知識を形成すると考えた。そしてそこには、物理的作用としての因果関係を含まない。「私が見ている火は、私がそれに近づくとこうむる痛みの原因ではなく、痛みを私にあらかじめ警告する印」(バークリー)でしかない。
ここにあるのは、観念間の規則性だ。このバークリーの記号は、ChatGPTの思考法にも似ている。ChatGPTは、物理的因果関係に基づいて生成するのではなく、過去の膨大なデータから統計的推測を行っている。バークリーは、人間が使っている記号もその程度のものだと限定したうえで、その営みを説明した。
バークリーからすれば、人間こそ、現実に接地しない抽象観念を使って終わりのない議論を行い、一方で記号の意味といえば、ChatGPTのように統計的な規則性で接地させているだけなのである。ここに、AIを超える人間のすばらしさなど、読み取ることは難しい。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師