未来に開かれた人生と死後の楽しみ
インフルAにかかりつつ、多いときで5名5時間の個別ゼミで論文指導しながら、もうひとつの仕事が、日本ビジネスモデル学会のBMAジャーナルの発行だった。さきほど、明日の予約公開の設定を終え、年内の仕事は明日のゼミ指導(3名)を残すのみとなった。ジャーナル編集作業は、とにかく、朦朧とする頭と、しばらく作業をすると目も霞んできてなかなか作業が進まなかったが、なんとか乗り越えた。
「なんとか」と書いてはいるものの、実はそんなに切実感はなく、だいたいこの年になると事前に可能か不可能かはわかるわけで、当日になって急に「やばい!」と気づくなんてことはない。焦ることがないから作業にも集中できるし、結果的に予想よりも速く終わったりする。若い頃はなんと無駄なことをやっていたのかと思ってしまう。
若い頃は、未来の時間がたくさんあるように思えるが、だからこそ意識が未来に向かわない。まだまだ膨大な時間があるのだから、そこでちまちま予測して対処する必要はないのだ。むしろ、彼らの時間意識は過去に向いている。まだ短い人生だからこそ、過去のひとつひとつのできごとの存在感が大きく、過去の失敗にとらわれ、グジグジすることこそ青春の特権なのかもしれない。
Mrs. Green Appleのライラックがレコード大賞を取ったというニュースだが、この曲の歌詞を見ても、寿命という数字が減るだとか、思い出の宝庫が光るだとか、クソみたいな敗北感とか、そういう過去にまつわるネガティブな歌詞が重ねられていく一方で、未来についてはほとんど語られない。暗い過去8、未来の不安2。それでも明るい未来への曲に聞こえるのは、彼らに未来の時間があるのだという絶対的な確信があるからだろう。
しかし折り返し地点も過ぎた私の場合、ここからは戦略的に時間を使っていかないといけないわけで、そうなると未来ばかりを考えることになる。過去にとらわれる場合じゃないのだ。ときどき過去の自分が蘇ってくるが、その都度ていねいに弔っていくことになる。メメントモリ(死を想え)なんていうクリシェを使うのはうんざりだし、死を特別視しているところに違和感がある。人なんてあっという間に死んでしまう。メメントモリを真顔でいう人ほど、まさか自分が死ぬと思っていないかもしれない。Mrs. Green Appleのライラックと同じ感覚なのだと思う。
メメントモリが結局、個人の死を言っているのも、違和感のひとつだろう。たとえばジャーナルは死んだあとにも残っていくし、人を教育すればその人はおそらく私よりも長生きする。死を思うよりも、むしろ残っていくものの生を思え、というほうが、私にしてみると時間を有意義に使おうという気持ちになる。メメントモリは、人生を個人のものとして閉ざしている感じがするのだ。
未来に開かれた人生というのは、実際のところ、いつ死ぬかわからない自分の人生の時間の中での未来ではなく、自分の死後にまで射程を持った未来に開かれた人生ということだと思う。ジャーナルは、正直今の読者を相手にしようと思って編集していない。死んだあとにたまたま見つけてくれた人が読んでくれることを、草葉の陰から眺める。老後の楽しみならぬ、死後の楽しみとしての娯楽なのだ。
小山龍介
BMIA総合研究所 所長
日本ビジネスモデル学会 BMAジャーナル編集長
名古屋商科大学ビジネススクール 教授
京都芸術大学 非常勤講師
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