今ふりかえる極東ロシアの旅② 日本との深い関わり
日本とのゆかりのある場所を訪ねる
極東ロシアは日本との関係がふかく、明治維新直後から日本人が色々なビジネスを求めて住み始め、ロシア革命直前には極東全体で日本人居留民が5000人近くいたそうだ。ロシア革命後、日本は、対ソ干渉戦争をしかけてシベリアに出兵し、2年ほどハバロフスクを占領した時期もあった。一方で、第二次大戦後の旧ソ連による日本兵のシベリア抑留の拠点でもあった。
また、前回見たようにロシア極東はアムール川を挟んで中国と相対しており、かつては、中ソ(露)国境紛争の最前線でもあった。
なかなか複雑な歴史をたどってきた地域だが、私が訪れた2017年のハバロフスクは平和な田舎町の雰囲気だった。ハバロフスクへ着いた翌日、8月16日の午前中、1人で町歩きをして、日本とゆかりがある歴史的な建物を見て回った。
最初の写真は中心的なストリートであるムラヴィヨフ・アムール通りにある中央百貨店だ。店の外観は古いが、なかの店舗も古臭く感じた。かつてこの場所には、極東革命委員会が置かれ、のちに州政府が置かれた。
ロシア革命の直後の1918年、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアなどの連合国がロシア革命に干渉するために、シベリアへ軍事侵攻した。ロシアが今のウクライナの立場に置かれたわけだ。革命に反対するロシア国内の白衛軍をこれらの連合国は支援し、赤軍のパルチザン部隊との死闘を繰り返した。しかし、連合国側は次第に形成が悪くなり、アメリカやイギリスなどは撤退したが、日本は1922年まで4年間も居直り続けた。
かつて存在した極東共和国
ソビエト政府も、一気に日本を追撃してしまうのは得策ではないと考えて、1920年から22年の間にハバロフスクやウラジオストクを含む極東地域に極東共和国と言う「緩衝国」を作った。とある地政学者によれば、ロシアという国は、敵国と直接対峙するのを避け、あいだに「緩衝国」を設けようとする傾向があるらしい。かつての東ヨーロッパやウクライナなどがそうだ。極東共和国もそういう位置づけだった。
しかし、日本もとうとう1922年に撤退したので、極東共和国は存在意義がなくなり、ソビエト連邦に統合された。そして統合後は、ソビエト連邦の極東地域における政治的な中心地がチタからハバロフスクに移された。その時の中心的な建物が、かつて中央百貨店の場所にあったという話だった。それ以来、ハバロフスクは今でも極東地域の政治的な中心地となっている。
第二次大戦後、ソ連は主に満州に残った日本の将兵をソ連国内に連行、抑留し、劣悪な労働条件のもとで強制労働させた。その数は65万人とも70万人とも言われ、シベリアの地で望郷の思いを募らせながら無念の死を迎えた人は数知れない。
このシベリア抑留の拠点となったのが、ハバロフスクだった。郊外には犠牲になった日本人抑留者のお墓があるのだが、今回は時間がなかったので行けなかった。
日本兵のシベリア抑留の痕跡
次の写真、ハバロフスク市内にあった黄色い2階建ての建物は、抑留者向けにソ連当局が日本語で発行した「日本しんぶん」の編集局があった建物だ。こういう建物がまだ存在していて、普通の会社のオフィスに使われているようだった。
ハバロフスク裁判のあった建物
3つ目の建物は、満州の関東軍や731部隊を裁いたハバロフスク裁判があった建物だ。2017年に渡した極東ロシアを訪問する数日前、NHK特集でハバロフスク裁判で731部隊の元将兵たちが中国人捕虜などを細菌兵器開発のための人体実験に使ったと証言している生々しい録音テープが公表されていた。
ハバロフスク友好会館は今どうなっているのだろう
4番目の建物は、冷戦期でもなんとか対外的な友好関係を強化しようとした活動していたハバロフスク友好会館である。かつてはこの建物には、ソ中友好協会、ソ日協会、コリアン友好協会、ソ米友好協会、アマチュア無線協会などのハバロフスク支部が入っていて、それぞれの国との相互理解のための活動をしていた。2017年の当時すでにこれらの団体は組織再編されて、別の場所に移転しているということだった。
ウクライナへの侵攻や西側諸国との対立激化のなかで、こうした対外友好運動をしている団体はいまどのようになっているのだろう。
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