今ふりかえる極東ロシアの旅④ 2時間半で行けるヨーロッパ
シベリア鉄道オケアン号で、ハバロフスクからウラジオストクへ到着したのは、2017年8月17日だった。
おしゃれな街並み
ハバロフスクは田舎町という感じだったが、ウラジオストクはおしゃれなヨーロッパの都会そのものだった。当時、旅行社が「2時間半で行けるヨーロッパ」という触れ込みで極東ロシアのパック旅行の企画を売り出していたが、その看板に偽りはなかった。
ウラジオストクは緯度としては札幌とほとんど変わらない。北海道へ行く感覚でヨーロッパの雰囲気を味わえる場所だ。
商売っけがない露店市
ウラジオストク市内の露天市を訪ねた。東南アジアや中国の露天位置では、まさに「売らんかな」という感じの客引きがウルサイが、ロシアは商売っけがない。しずかに、ゆっくりと市場を楽しむことができた。
軍港の街
ウラジオストクは、ロシア語で「東方を制圧する」という意味があるそうだが、不凍港として旧ソ連・ロシア海軍の太平洋艦隊の拠点となってきた。ソ連時代は外国人は入れなかったそうだが、2017年時点ではオープンになっていた。その後、コロナ禍があり、また、ウクライナ戦争ではこの極東からの軍隊が派遣されていると聞くので、今はどうなっているのだろうか。
次の写真は鷹ノ巣展望台からウラジオストクの町全体を見渡した風景だ。昔はこれも軍事機密だっただろう。
次のはロシア太平洋艦隊のビルだ。恐る恐る写真を撮ったが、どこからもお咎めはなかった。
要塞博物館
ウラジオストクには、要塞博物館というものがあった。高射砲や戦車、ロケット弾などの武器が無造作に置かれていて、触り放題、乗り放題だ。軍事マニアでなくても、これは面白かった。
ト ーチカのようなところには、ウラジオストク軍港の歴史が展示されていた。
ロケット弾を搭載しているトレーラーの後輪がパンクしたまま放置されていた。当時は、「これが、”平和な証拠”であれば良いのですが」とFacebookにアップした記事に書いていたのだが、まさか5年後にウクライナ戦争のような事態があるとは考えてもいなかった。
C-56潜水艦博物館
ウラジオストクのもう一つ訪問した軍事遺跡がC(エス)-56潜水艦博物館だった。ロシア語では、Cは英語のSにあたる。
これは、潜水艦の中もみることができまた。C56潜水艦が第二次世界大戦中に活躍した潜水艦ということだ。
そのC-56潜水艦博物館の隣には戦没者への慰霊のレリーフがあった。
ここにも日本とのかかわりがあった
ウラジオストクの公園に「ニコライ2世凱旋門」というのがあった。これは、実は滋賀県の大津と関係がある。
1891年(明治24年)5月11日、当時、ロシアの皇太子であったニコライ二世が日本を公式訪問したとき、琵琶湖観光のため立ち寄った大津で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然切りつけられる暗殺未遂事件が起こった。いわゆる大津事件である。
当時のロシアといえば強大な帝国で、明治維新から間もない弱小日本からすれば、これは大変な事件だった。これを口実にロシアから戦争を仕掛けられるかもしれないし、領土の割譲など法外な賠償を要求されるかもしれなかった。事件の翌日の5月12日には東京から明治天皇が汽車に乗って京都まで飛んできて、ニコライ2世を見舞ったというのだから、日本政府の慌てぶりは相当なものだっと思われる。
結局、ニコライ2世は予定していた東京訪問を中止して、ウラジオストク経由でロシアに帰国した。この帰還に合わせて作られたのがニコライ2世凱旋門である。
その後、ニコライ2世は、ロシア・ロマノフ王朝の最後の皇帝に即位するが、社会主義運動や革命運動を過酷に弾圧した。そして、ロシア革命後の1918年に一家もろともボルシェビキ政権によって殺害され、この凱旋門も破壊された。
ソ連崩壊後の2008年、ロシア最高裁判所でニコライ2世は根拠なしに迫害されたとして、名誉回復がなされた。ニコライ2世凱旋門はそれに先立つ2003年に復元されたということだ。
今は、観光名所となっているが、その背景を調べていくと、20世紀の激動の歴史を感じた。
<今ふりかえる極東ロシアの旅③ | 今ふりかえる極東ロシアの旅⑤>