ナイトルーティーン
暗い視界に透明な朝が差し込んだ。遠くの方で無機質なアラーム音が鳴っている。ゆっくりと目蓋を持ち上げると、世界が徐々に明確な輪郭をもって現れてくる。それに反比例するように、心地良い夢の微睡みが曖昧になって消えていった。全身が重い。布団から腕だけを伸ばしてアラームを止める。睡眠の妨害者を排除して、身体は再び眠りに就こうとする。
「毎朝決まった時間に起きよう」
ゆっくりと身体を起こす。7:30。初夏の朝は空気が清潔だった。ひとつ大きな伸びをして、洗面台へ向かう。冷たい水で顔を洗って、ふかふかのタオルでそれを拭く。キッチンでトースターに食パンを突っ込み、コーヒーを沸かす頃には、眠気はすっかり覚めてしまっていた。
「朝ご飯はちゃんと食べよう」
小気味良い音が鳴って、こんがりと焼けたパンが勢いよく飛び出す。それを横目に目玉焼きとウィンナーをフライパンで炒める。お皿にそれらと野菜を載せて、食卓に並べる。栄養を求めた空腹の身体に、食欲をそそる匂いが入り込んでくる。「いただきます」
「いただきますとごちそうさまは口に出そう」
「ごちそうさま」シンクで食器を洗っていると、家の外からも生活が始まる音が聞こえてくる。小学生がおしゃべりしながら登校する音、車の排気音、水の流れる音、踏切が降りる音。洗い物をすべて片したら、洗濯機を回す。そしてその間、部屋を簡単に掃除する。
「部屋は清潔にしておこう」
そうこうしているうちにバイトの時間になった。服を着替えて、荷物をそろえる。昨日まとめておいたゴミ袋を持って、玄関のドアを開ける。冷房の効いていた室内に比べて、外は湿気を含んだ暑さが空気に満ち満ちていた。初夏の若々しい陽差しが眩しい。ごみを出して、太陽のエネルギーを受けるように大きく腕を広げたあと、自転車をラックから引き出す。駐輪場にいる猫にひとつ挨拶をする。2駅先のコンビニへと漕ぎ出した。
「なるべく毎日身体を動かそう」
今日のバイトは朝9時から夕方5時までだった。今日は休日だから、お客さんはいつもより多かったように思う。レジ打ちが遅かったのと、タバコの番号が分からなかったのとで2回、お客さんに怒られた。でも、毎日コーヒーを買っていくおばあさんが「いつもありがとう」と言ってくれた。それと、お昼休憩に廃棄期限の迫ったお弁当が貰えた。鯖の味噌煮を食べるのは久しぶりで、こんなに美味しいものなのかと感心した。
「嬉しかったことは覚えておこう」
バイト帰りに、近くのドンキホーテに寄った。昨日メモしておいた通りに、日用品をまとめて買った。かばんにいつもしのばせているエコバッグは大きいから、それでもまだ余裕があった。隣町の商店街まで自転車を走らせて、夕方で値引きされているお肉を買いに向かう。
「おかえりとただいまはちゃんと言おう」
「ただいま」アパートに帰って、炊飯器のスイッチを入れる。野菜とお肉のバランスに気をつけながら主菜と汁物を作る。副菜は作り置き。つやつやのご飯が炊けたら、それをこんもりとお茶碗によそって、「いただきます」
「夕飯の間テレビは消そう」
よく噛んでからご飯を呑み込む。「ごちそうさま」洗い物をしながら、お風呂を沸かす。ぽかぽかの湯船に浸かって、今日の疲れと汗を流した。パジャマに着替えて髪をしっかり乾かす。冷房の温度は下げすぎないまま、湯上がりの身体で紙とペンを持つ。喪失を歌う詞を書いて、今日はおしまい。メロディーをつけるのはまた明日。
「夜10時になったら仕事はやめよう」
借りたDVDで安い映画を観る。すかすかの内容で、そのしょうもなさに思わず笑ってしまう。スタッフロールまで見送ると、時計の針はもう頂点を過ぎていた。テレビのスイッチを消して、キッチンへ向かう。マグカップに牛乳を注いで、電子レンジで温める。
「寝る前にあったかいものを飲もう」
人肌に温められたミルクをすすりながら、今日のことを思い出す。朝の陽差しが気持ちよかったこと、駐輪場の猫のしなやかな体躯、子供の笑い声、鯖の美味しかったこと、おばあさんの笑顔、商店街の先に沈む夕焼け、コロッケの匂い、夕暮れを背に商店街の電柱が影を伸ばしたその光景、夏の気配、夜の初めに灯りをつけたピカピカのコンビニ、味噌汁、お風呂、映画。
「今日あった出来事を話そう」
歯を磨いて、ふかふかのベッドに潜り込む。電気を消すと部屋には濃密な暗闇が落ちる。
「これらのルールを、できるだけ守るようにしよう」
春の陽気のように穏やかで心地良い感触が、脳を睡眠へと誘おうとする。
「君と私が、一緒に生活を送っていけるように」
閉じかけた目蓋に一筋の光が差した。それは窓から溢れ出た、冷たい月光だった。それは視界をぼやけた明かりで照らし、思考を徐々に晴らしていく。目が次第に冴えていく。
僕は何をやっているんだろう。
僕の寝るベッドにはひとり分のスペースが空いている。ローテーブルの真ん中に飾った花はとうに枯れた。本棚の半分はごっそりと空いている。視界を回してキッチンに向けると、使われなくなった食器一式がうっすらと埃を被りはじめていた。
この生活には、ちょうど貴女だけが欠けている。
もうこのルールに、このナイトルーティーンに、意味なんてなかった。
どれだけこの生活を続ければ、僕はひとりに慣れるのだろうか。どれだけこのルーティーンを守っていれば、それは僕だけのものになるのだろうか。あとどれだけ時間が経てば、僕の生活は貴女を忘れるだろうか。
いや、わかっている。このルーティーンを辞められないのだから、僕は。
大きくため息を吐く。目はもう覚めてしまっていた。コンビニでも行こう。夢のような貴女の名残りに落ちていくには、タバコでも吸わないとやっていられないから。外へ出ると、夏の夜の寒さの奥で、コンビニの光がやけにぼやけて見えた。