振り上げた拳のもって行き場【R18】
※全てフィクションです
人を殴ってその拳が無事で済むことは少ない。
経験、もしくは想像によって思い至るだろうが、
例えば人の顔を殴ると、拳が歯などに当たって傷つく可能性は大である。
それでなくとも、基本的に人体には骨や爪といった硬いものがつきものである。
うまいこと世の中はできているというか、
つまり、「一方的に人をボコボコにする」ことはなかなか難しいことなのだ。
しかし、骨やら歯、爪のない、そんな部分に絞れば
傷つけることなく、安全に拳をそこにめり込ませることができる。
そこが女の腹である。
贅肉なのか筋肉なのか内臓なのか境界が曖昧な感触。いずれにしろそれはあたたい。
この、渡りやすいとはとても言えない世間を微力ながら切り拓いてきた拳を包み込んでくれる。
女の両手を上げさせれば肋骨が浮き上がる。
そうすれば拳が骨を、骨が拳を傷つけることもない。
あとは、そのやわらかさに全てを委ねるだけである。
あなたはもう逃れられない。
窓一つの部屋
あの頃、家と高校の距離が著しく離れていた私は、学校での用事が終わってもすぐには帰宅せずに
「せっかく遠くから高校に来たんやから」と学校周辺に滞在していた。
出入りしていた軽音楽部の部室や図書館、生徒から喫煙所などと呼ばれていた街角の空き地が私の青春の思い出の場所というわけだ。
そういう場所でお世話になるのは大体休日に、籍を置いていた某運動系の部活が午前で終わった場合である。
そんな師走のある日も、暇をつぶせる場所で過ごしていた。
確か、太宰の掌編を読んでいた。
私が文庫本を持ち腰掛ける一人用のソファの正面に窓があり、冬特有の白い陽光というのか、曇り空に反射した光が部屋に入ってくる。
窓が眩しくて左側に目を向けると飾り気のないベッドに、両手でマグカップを口元付近にやる女の影が視界に入る。
逆光なので、どんな私服のセンスをしているかは判断できないが、
かつて想いを寄せていた男と自室で二人きりのときにするような服装ではないように見受けられた。ザ・部屋着である。
私の方は、ちょうど太宰を30分ほど凝視していたので、眼をリラックスさせようと少し遠くを見ることにした。眼の筋肉をほぐそうしたのだ。
彼女の自室の窓の右側には押し入れがあって、私の身長と同じくらい、高さ180cmほどの本棚が二つ入っているのが見える。残りのスペースは箪笥が占めている。
教科書参考書の類は私の左手方面にある、勉強机に置かれているのでカテゴリーとしてはそれ以外の書籍が本棚にある。
まず目につくのは『ベース・マガジン』や各種バンドスコアなどの音楽系書籍だ。このジャンルの雑誌や書籍は装丁が派手なので目につく。それが30冊ほど同系統のものが棚にあるので圧巻である。
そうだ、確か彼女との出会いは軽音楽部の部室だったなぁとふと思う。
決して忘れていたわけではなかったが、普段改めて考えることではないので、まるで思い出したかのような気分である。
そう言えばもう12月である。
読書に疲れたことだし、しばらく彼女との日々を振り返ることにしよう。
とにかく色々あったから。
窓の外はまだ、雨も雪も降ってはいない。
軽音楽部部室
軽音部の部室で出逢ったと言っても、私は音楽とは縁もゆかりもない某運動部の所属である。
きっかけは6月あたりに、この部の定例演奏会前にドラム担当が盲腸か何かで入院し、ドラム経験者である私が代役を務めて以来、軽音部室は私の庭と言ってもいい場所となった。
顧問は部室のドラムを触っても良い許可までくれて、真面目に授業など出ない私はここにもよく入り浸っていた。
よく部室に出入りしている有象無象の田舎高校生とは違い、部員の一人である彼女には光るものがあった。
身長170cmほどの痩せ型、ファッションに疎い私でもわかる肩ぐらいまでののきれいな髪。
口数は少なく、一人を好む性分らしいがそれなりに美人ならば「物静か」と評価されるのが世の常。
その見た目に違わず部活や学業をそつなくこなす。
「孤高」という言葉がこれほど似合う人間が、この偏差値50くらいの地方公立高にいることは奇跡といっていい。
そして、ずっと後から判明するが彼女はいい体をしていた。
あくまで私の印象だが適度に厚みがあって、重力を感じた。
雑誌やR-18の同人誌にいるような、不健康に痩せて乳房と尻だけ存在感がある女とは違う。
痩せ型とはいえ、座れば下着にほんの少し、
下腹の肉が乗るような目の前の田舎女子高生の方がいいと私は思う。
そのときから、やわらかさに囚われていたのだろうか。
廊下
彼女の部屋から出て、階段を降りる。
彼女が持つマグカップを見ていたら私もコーヒーが飲みたくなったのだ。
この家の一階廊下には、壁が凹んだ写真立てスペースがある。
ある一枚は夏の青空を背景に今より少し幼い彼女とその家族、妹とその両親が写っている。
彼女以外の三人はこの週末、四国に旅行しているとのことだ。
それで、彼らとは赤の他人の男子高校生が大手を振って廊下を闊歩しているわけである。
鮮やかに空の色が出ているのでその写真を台所に持っていく。
これを見ながら、コーヒーをつくる時間をつぶそうと思った。
家族写真に相応しい、教科書通りの笑顔である両親と妹。
裏腹に読めない表情の彼女。それは、彼女を知る多くの者が知っている顔だ。
写真は夏なのにどこかひんやりした印象を与える。
そんな彼女が、あのときは一体どうしたのだろうか。
夏の写真を見ると、今年の夏の体育館裏でのことを思い出す。
私はケトルに水を入れた。
体育館裏
もうすぐ終戦の日なので『はだしのゲン』を軽音部室で読んでいると、当時はただの知り合いである彼女に声をかけられた。
「暇やったら、五分後くらいに体育館裏に来てくれへん?」
『はだしのゲン』読むのに忙しい、と返答しようとした私は彼女と目が合い何も言えなくなった。
妙に決意に満ちた目が30cm先にあったからだ。
結局、引っ込み思案でおとなしい小学生のように無言で首肯するしかなかった。
それから10分後の私はひたすら地面の一点を見つめていた。
日向は馬鹿みたいに暑いが体育館裏の日陰は少し寒い。震え出してしまいそうだ。
しかし驚いた。まさか私が交際を申し込まれるようなことがあるとは。
去年、修学旅行の宿で夢精し、定期テストの物理で3/100点を記録して校内の有名人になっていたような男がである。
まさかのまさかだった。
一方、私の目の前で突っ立っている彼女への印象は高嶺の花というほどではないが、住む世界が違うとかそんなだった気がする。
楽器がうまくて、学業も優秀なのは事実だがそれ以上に「風格」があった。
適度に人を寄せ付けないような。
私とは違っていい意味で注目の的というやつだ。
そんな彼女を「そういう目」で見れるのかが問題の核心な気がしていた。
と考えていたら、腕時計でかれこれ彼女への「返答」に10分余りかけていたことに気づいた。
これだけ焦らして断るのもどうだろうか。
結局私は、「大体毎日会っとれば愛着でもわくやろ」という見通しで承諾した。
いつだって、断る方がエネルギーを要すのだ。
ベッド
出来上がったコーヒーを持って台所を出る。
私が彼女の部屋に戻っても、こちらを振り向きもしない。
しかも、私としたことが件の夏の写真をこの部屋にまで持ってきてしまった。
「まあいい」と自分で自分に言い聞かせる。この家には「癒し」を求めてやってきたのにこんなことで自分を責めるべきではないだろう。
窓際に立って外を見ていた彼女と目が合う。
元恋人だけあって、私の意図を汲むのが早い。
左側に移動してベッドに横たわる。
コーヒーを二口飲んだ私もそこに向かう。
ベッドの側面に立つと、やっと彼女の表情が見えた。
それは淡白というか、あまり楽しそうではないものだった。普段通りと言って間違いはない。
だが、交際当初のように無理した笑顔ではなく、むしろ楽になっていると言えなくもないのではないだろうか。
まったく、美人というものは笑顔以外にも惹きつけるものがあるのかもしれない。
彼女を眺めていると、視線の先には本棚があった。
本棚
9月か10月の辺りにはじめて彼女の部屋に来たとき真っ先に目がいったのはこの本棚だった。
背表紙には恩田陸、森見登美彦に北村薫と米澤穂信に浅田次郎。
時代を遡って芥川やら太宰。
ビッグネーム揃いかつ、好みが合っていたようで私は興奮した。
聞けば、学校でこのような作家の本を読んでいると目立つので大っぴらにはやらないが自室では結構な読書家だそうだった。
もちろん、私もそれなりに小説を読むからというのもあったが、本棚に着目したのはそのためだけではない。
当時は彼女の情報が欲しかったからだ。
半ば押し切られる形とはいえ男女交際が始まって1ヶ月ほど。
明らかにお互いに無理をしていた。
二人きりのときは沈黙を埋めるように無難な会話を差し込み、失敗しないようにとそれだけにかかりきりだった。
楽しさなど感じている余裕は私には全くなかった。彼女の方はどうかわからない。
お互いに人生経験というやつが足らなかったのかもしれない。彼女とともに本棚を見ながら12月の私もふと思う。
結局、あの沈黙を埋めるだけの時間が二人に何をもたらしたのだろうか。二人は何を得ようとしたのか。それは今になってもわからない。
話題のストックの一つを増やして喜ぶ、的外れな私の思いとは裏腹に男女関係の進展は得られずに秋は深まっていった。
全く、人は気の合う誰かと一緒にいることで幸せを感じるというのは誰が言い出したのかと思う。
普通といえば、そもそも私は自分をそうだなどと思ったことはなかった。
例えばクラスの男どもが好むようなピンク映像を、集団で観たことは何度もあったがその度にその思いが増していった。
私の方はと言えば、女性を痛めつけるような作品にしか興味が持てなかった。
キワモノというやつだ。
そりゃあ男女交際において悩みは出ることだろう。
このように17歳の私は、ことあるごとに自身と周囲を見比べ、ことあるごとに何かが違うと頭の中で繰り返していた。
そして、普通ではない者はどう生きていけばいいのかを思い悩んでいた。
来年から受験生という状況もよくなかったのだろう。
眠れぬまま登校し、意識を保つためにミンティアを貪り心臓が痛くなるのは日常茶飯事だった。
普通ではない者にはロールモデルはない。私は高校を卒業した後は一体どうすればいいのだろうか。悩みが悩みを呼ぶ。
ある日、軽音部室で彼女と二人きりだったときのことだ。
上着のブレザーを脱いだ彼女は黒板を消していた。
その日はやけに、目が離せなかった。
控えめな乳房から視線を下げるとスリムな腹部。さらに下にはきっちり折り目のついたスカート。
上半身はよく洗濯されたセーターだ。まるで、あたたかい女性の象徴そのものである。そのときの私にはそうとしか見えない。
追い詰められている私の視界に、最も入れてはならないものだろう。
「私がこんなに七転八倒しているのに、なんだあの女は。呑気に上着なんか脱いで誘惑しようとでも?」
そんな考えが降りてきた。
とても冷静とは言えない私は、具体的にどう制裁するかを検討した。
まず、顔は流石にまずい。やるなら服に覆われているところだ。
それから、目撃者だ。これについてはもうすぐ下校時刻だからここには誰も来ないに決まっている。すぐに終わらせればいい。
そんな風に検討していくと、彼女の腹に一発めり込ませてすぐにこの場を離れるのが正解なように思えた。
では、次に考えなければならないことは・・・。拳が彼女の肋骨に当たらないようにすることだ。もし病院送りにすれば下手すりゃこっちが少年院送りだ。
難しい御託を並べるのは沢山だった。もう思い悩むのは沢山だ。
女性を痛めつける映像をインターネットの海で探していたとき、女性の腹を殴る映像を見つけたことを思い出していた。
音、めり込み、殴られた方のリアクション。
全てに目を奪われ、退屈なときによく思い出していた。
今はもう、思い出すどころではない。それしか考えられない。
難しいことは抜きにして、彼女のあたたかさを感じたい。その一心で私は立ち上がった。
彼女の部屋
あのとき私がしたことについて、私と彼女は何も話していない。
私の方はともかく、彼女の方はさぞ驚いただろうが、私を糾弾するようなことはなかった。
有名人ではあっても、仲がいいと言える友人はゼロだ。
そして、彼女以外の家族は旅行に行き、一人この家にいる。家族仲があまりよろしくないことは、私が彼女に「手を出す」前からわかっていた。
それでも、流石に私のことをもう普通の「恋人」だとは思っていないはずだ。
横たわる彼女の、諦めたような表情がそれを物語る。
私の方も、諦めたという点では同じだろう。
具体的に何を、というのは難しいが両親や周囲の大人のように生きていくことだろうか。
もう、幼い頃に抱いていた将来像からは遠くに来てしまったことは折に触れて感じる。レールから外れたのではない。私の目の前にはそれがなかっただけの話だ。
だがもう仕方がない気がする。
まともな男女交際も普通の青春が叶わなくても、あのやわらかさ、あたたかさを私は知っている。
そう考えるといてもたってもいられない。
何の意地だろうか、少し興奮していることを悟られないよう、そっと横たわる彼女の服の裾をめくる。
冬休みに入り、運動部には入っていない彼女はふくよかさを増しているようだった。
しばらく黙って見ていると、外は晴れたようで窓から光が差し込んできた。
それはちょうど彼女の上半身を照らす。
眩しくて日向から目を逸らすと彼女と目が合う。
そのときは、その辺りが日陰になっていた。
その瞳には私が映っている。
ふと思う。
なぜ彼女がずっと抵抗も、外部にSOSサインを出さないのか。その気になればできるだろうに。
これではまるで私を哀れんで、自分という生贄を差し出しているようではないか。
確かに瞳に映った私は哀れだった。
人には言えないような秘密を抱えて、この先どう生きていくのか見通しは立っていない。
そしてその秘密を握っているのは、腹部を晒して横たわるこの女である。
この調子では、私は思い悩むことからは一生逃れられないかもしれない。
その思いを消し去るように拳をめり込ませた。
もう、このやわらかさからは逃れられそうもない。
いつだってそれは私を包んでくれる。
何かに使いますよ ナニかに