文明よりも太陽と月がある限り

 私は割りと慣れていない道を歩くのが好きだ。ほんの僅かの冒険気分。そしてそこに空き家や素敵な庭を見つけると、胸に青臭い喜びがにじんでくる。

 空き家を見つけると胸に小さな振動が起きるのは何故だろうか。探検気分と別れの寂しさ。こんな素敵な家を壊してしまうのか、家とは使い捨てるものだったろうか。
 しかし、空き家の前に掲示された白い建築計画の標識を見るととうに着工予定日を過ぎているのに何も手が付いていないものも多い。……不景気なのだろうな。歴史に敬意なく家を使い捨てにする不動産文化は多少衰退すればいいのだ。人間は地面を削りすぎた。これからは風化を眺め土に還る建築物の間で暮らせばいい。

 坂道を歩いたら、一回は振り返ること。そうすれば自分が後背にどれ程素晴らしい景色を背負っていたか知ることができる。魅力的な登り坂は、下りの展開もまた優雅。

 冬の実感が薄い。今年は暖冬のようだが、その実感もまた薄い。それはマスクのせいだろう。私は今まで花粉症を長患いしたこともないため、咳を拗らせた時くらいしかマスクをしたことはなかった。しかし今はCOVID-19の禍中、自宅以外はマスクを着用し続ける生活。マスクは飛沫対策だけでなく吸気を暖める効果があるため寒さの体感が和らぐ。しかし、

 冬の冷気の浸透が無い。肺に凍みる青白い冷気を感じることが出来ない。そしてもう沈丁花が咲いていることをようやく知った。姿は見えなくても香りだけで存在を知らせるあの花の開花をこの今まで気付かなかったのだ。不織布たった一枚、確かに様々なものを遮蔽し季節までも遠ざける。
 それでも花は咲いている。人間が滅び果てても命は巡り続けるだろう。

 周囲を見回して、そっと素肌で深呼吸した。少し甘くなった冷気の味がした。


今日の英語:Scent

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