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『足るを知る』

30代になってからの課題はずっとこれのような気がしている。足るを知る、どうやら語源は「足るを知る者は富む」、という老子のことばだそうな。

満足を知る人は貧しくても心は豊かである ―


情報に溢れかえっている現代社会、手元の端末ですぐ様々なところにアクセス出来ることはメリットも多いがデメリットも多いと思う。しかしながら、だからといって情報をシャットアウトしながら生きることは生半可な気持ちでは達成できず、行うには難しい。

バリキャリ時代は手に入るお金でほしいと思うものは大体何でも手に入れてきた。ほしいものがある、したいことがある、だから仕事をする、という感じだったようにも思う。(仕事は大変だったけど好きでもあった。)営業マンだったので、会食なども多々あり、美味しいごはんやお酒と供にある生活だった。

コンビニには足しげく通っていたので新商品には目ざとかったし、アポイントの合間にカフェに入ってコーヒー飲みながらいろいろ考えたり、お昼も別に一人が全然気にならない派だったので、好きなお店に入り、好きなものを好きなように食べていた。貯蓄をあんまり真剣に考えてなかったし、楽しい時間を過ごすことが本当に一番の目的、という感じだったかなと思う。概ねエンジョイしてそれなりに楽しい日々だった。ところがある時ふと、魔が差した。可愛いバッグもいい処でのおいしいご飯も、なんかその一瞬だけの高揚感であとは何も残らないなーと、ただ率直にそう感じられた。だからある日自分に一日1000円、などと上限を決めて過ごすことにした。

予算があると、お昼ご飯を調達にコンビニに行っても、食べたいものが必ずしも手に入らない不自由さがある。何かを買ってあと何円残っている、なんてこの電子マネーの時代でお財布の小銭をチャラチャラと数えたりしながらおこづかいでお菓子を買った子どもの頃を思い出した。やってみると案外出来る、その上に妙に達成感がある。今日は何円残したぞ…!という高揚感は、お金で手に入れた自由で得た高揚感とは比べ物にならず、且つ翌日の使命感へと繋がった。

「いまある分でなんとかする」

不思議なもので、この手持ちの不自由感が大きければ大きいほど達成感は大きかったように思う。もちろんすべてのことにこの理論を適用できるとは言わないけれど、今ある分に目を向けるという行為は創意工夫を要し、またあるものを大事にする、というそれまでの自分にはどこか欠けていた(否、寧ろお金を支払うことできっと忘れ去られていた)視点を思い返させてくれた。

あー、あれほしいな、これ欲しいな、となるわけです。世の中素敵で魅力的なものに溢れ返ってる。でも一歩立ち止まって「ほんまか?」と「足るを知る」。

案外その欲求の元になっているのは見栄だったりするんだ

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