私と祐正とセツルメント
以前佐伯祐三展に行った時のことを以下の記事で書いた。
そこで祐正という兄とその活動について多少触れたのをここではメインに取り扱おうと思う。
そもそもセツルメントという活動と自分との接点について、だけれども私は自分が産むことを想定していなかったので学生時代はぼんやりと将来は子どもを施設から引き取って育てたいと考えていた。
そんな矢先、大学のサークル活動欄にセツルメントという文字を発見したので赴いてみることにした。活動の内容は主に児童養護施設に出向いてそこで生活する子どもと一緒に遊んだり、勉強を多少見てあげたりするお兄さんお姉さん、というところ。当時はまだ部員数が少なく(先輩方が卒業していった後だったのかもしれないが)具体的にどの様な活動がなされていたのかその真相はわからないが、私の目にはちょろっと施設に行って子どもと遊び、その後所属するメンバーでご飯を食べにいくというご飯会がメインの、言葉は悪いが名ばかりのサークルのように感じられた。(当時の私にはどこか物足らなかった)
午前と午後では別々の施設に赴くが、サークルという名のボランティアのため、参加する人がいたりいなかったり、各週で人数もまばら。アルバイトではないので強制力もなく、来たり来なかったりする学生の曖昧な態度に施設側も困惑したに違いない。(たしかこの点で施設側から叱責されたこともあったような気もする。)
施設にはそれぞれ自転車に跨り施設まで十数分かけて向かう。私は下宿していたのもあり、比較的大学に近い場所に生活していたので朝から活動すべく午前を選んだ。午後は比較的人が集まる、というのをみて午前を選んだ、というのもある。
先輩らと3、4人。時には一人での実践もあった。当時は細マッチョに多少の憧れがあったので(実際は全然そんな体型ではなかったんだが…)子どもを二人ずつ膝に乗せて遊んだりするのもとても楽しく、たった数時間、1週間に1回だけれどもとても充実していた。
心理学を専攻しながら福祉についても学ぶうちに、こうした児童養護施設についての知識が増えた。実践する中でボランティアの限界や、自分たちの立場、子どもへの接し方、何がより必要なのかといったことをより深く考えるようになった。
自分に後輩ができる様になる頃には志を共にする仲間が増え、すぐにご飯会になっていたかつての実践後の部室ではこういった問題について考えたり、この部として施設側に出せる催し物について考えたり、より充実した活動の時間を持てる様になった。人数も大幅に増え、現地でも手持ち無沙汰を感じられるくらい、子どもに対するセツラー(部員のこと)の割合が増えた。一人実践、という言葉が伝説の様になったぐらいだった。
しかし下宿先の学生斡旋マンションが一般の社会人などにも開放されたことを機に、玄関のオートロックは壊されて窓ガラスは割られ、夜な夜な騒音が聴こえてくるようになり、パトカーがマンション先に頻繁に止まるなど、何故か一気に治安が悪化してしまった為2年でそこを出ることを決め、更新はせずに実家から通うことになった。すると通学時間に3時間近くかかることになり、到底朝の活動に赴くことは難しくなった。授業数も減り、また部の人数も増えたことも相まって卒業という形で活動を終えることになる…
丸々四年もないこの短い期間での活動で私は多くを学び、信頼できる友もできた。今でも貴重な時間を過ごせたことに感謝しているし、またこの人生のどこかのタイミングでそういった活動やそれに近いものなどに多少なりとも関わることが出来たらと今でも思っている。とまぁ最後は余談だが、セツルメント活動と私自身の接点はなんとなく掴んでもらえたかと思う。
佐伯祐三展に足を運んだことをキッカケに知った兄の祐正、そしてセツルメント。興味深く思い、ネットで資料や情報を探してみると一件ヒットするものがあったのでそれを読んだ。
祐正は今でいう大阪市大淀区中津2丁目に建つ浄土真宗本願寺派房崎山光徳寺にて1896年2月14日、四男三女の長男として生まれた。
パリで客死した弟の祐三の様に祐正も芸術方面への関心が高く、一度は音楽方面への道に志しを立てたものの、住職である父の死後法燈を継承している。その時祐正は
と語っている。
佐伯は仏教に対する懐疑を持ちつつ住職としての道を選び、仏教の現代化という命題を自身に課した。現代の寺院は住職が私有化してしまっており宗教的社会的に利用していないことを厳しく批判し、本来の「公の家」かつ「社会の家」としての姿に帰るべく、寺院の地域社会への開放を介して住職の貴族的因襲からの解放および社会との関係づくりを意識した。そしてその具体策として、自坊光徳寺を基盤とした社会事業活動(セツルメント)を展開した。
光徳寺善隣館は1921年5月に開設されているものの、1924年頃まで目立った活動はない。だが1925年から翌年にかけて訪れた欧米各国のセツルメント見学、とりわけ長く逗留したロンドンのトインビー・ホールでの貴重な体験から多くを学び、帰国後イギリス流のセツルメントを実践している。
このイギリス流セツルメントを目の当たりにし、佐伯は演劇や言論を通して自己主張することの重要性を学んだ。日本人に欠如している「人前で堂々と自分の意見を表明できるようになる」ためには表現力を習得しなければならないと考え、セツルメントにおける演劇や音楽活動には並々ならぬ関心を示した。
1924年善隣館では宗教部、社会教育部、社会事業部などと部門分けし、事業を拡大させていく。1928年には郊外の家として豊中の刀根山に一千坪の土地を購入して労働者や児童などの慰安施設として開放した。
1929年光徳寺境内に図書館を建設、1932年には佐伯家の私有地の借家数軒をとりこわして敷地約60坪に二階建ての社会館を設け、さらに1939年同じく借家を取り壊して母子寮を建て、12組の母子をここに保護している。
セツルメント活動のため寺院の建物や境内はすべて地域住民に開放され、佐伯家の個人財産も全て投じられた。しかし戦争と経営難により事業の一部閉鎖を余儀なくされ、1945年6月1日に中津付近の空襲によって400年の法燈を守り続けた光徳寺そして善隣館も灰となってしまった。佐伯自身もこの時受けた重症が原因して同年9月15日に49歳で死去している。
佐伯祐三という弟から入った興味だったが、兄の祐正もなかなかのすごい人だった。参考に読んだ以上の論文にはここに書ききれないくらい興味深い事実が載っており、関わりのあった複数の人物についてや当時存在した他のセツルメント活動についてなど関心は尽きない。
自覚的・教育的運動としての社会事業をセツルメントに求め、血の湧き出る様な現実的、社会的な仏教への模索を続けた住職兼セツラー祐正。
関係のあった川上貫一はそんな祐正を「とにかく文字通りの自由人であけっぱなしの朗らかな坊さんだった」と評しているそうだが、そんな人物が身近にいたら、と思い巡らさずにはいられない。