元号のはなし

日本最初の元号は大化の改新以降に
定められた「大化」であるというのは
歴史の教科書にも載っている。
大化以前にも元号はあったかというと
あったけれども私年号(有力者が勝手に定めて使った元号)とか
九州王朝説論者の方々の唱えるように
全国共通ではなく、個々の国ごとに独自の元号を使っていたとか
いうのが通説である。
ところが、大化以前に全国規模で使用されていたと思われる
元号がある。それが「法興」である。
法興は、法隆寺釈迦三尊像の光背に刻まれた銘の中と
伊予国風土記逸文の中という全く離れた場所の関連性のない文の中に
年号として矛盾なく書かれており、少なくとも全国規模で使われた
年号ではないかと想像できる。
推古四年(596年)から同十年(602年)まで の7年間の私年号というのが定説だけれども、先の法隆寺釈迦三尊光背には法興元丗一年(627年)という記載がある。
法興が596年~627年頃まで続いていたとすると興味深いのは
蘇我馬子が諮って崇峻天皇を殺害して実権を握ったのが592年頃、
また馬子の没年が626年と言われていて、
この時代、馬子が天皇となって元号を法興としていたのではないだろうかという妄想を掻き立てる。
大化の改新で蘇我氏が滅ぼされおそらく蘇我氏の時代の歴史は
記紀で大きく改ざんされているであろうが、
蘇我氏の歴史とともに法興の年号も正史から消されてしまったのでは
ないだろうか。

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