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「あの頃」は確かに青春だった
高校時代、私は男子バレーボール部のマネージャーをしていた。
このことを話すと、たまに「なぜマネージャーを?」と訊かれる。
私だって、もし人並みに(本当に人並みでいい!)運動神経があったなら、マネージャーではなく自分で何かスポーツをやっていたと思う。
体を動かすことも、汗を流すことも、努力することも嫌いじゃない。実際、中学時代はバドミントン部だったし、部内の誰よりも一生懸命練習していたという自負もある。
だけど、残念ながら、とんでもなく運動神経が鈍いのだ。一番よく練習したが、一番下手なままだった。
そんなわけで、高校からはもう自分が選手としてがんばることはあきらめた。
ただ、文化部や帰宅部ではなく、運動部に入りたかった。
なぜなら、スポーツが苦手な分、私は運動ができる人への憧れが強い。
どうやったらあんなに早く走れるのか。
どうしたらあんなに高く飛べるのか。
身体のどこをどううまく使えば、ラケットやボールを上手に扱えるのか。
そして、「努力が報われる瞬間」とはどんな感覚なのか。
「勝つ喜び」とは一体どういうものなのか。
それを知ってみたかった。
自分ではできないけれど、スポーツをしている人たちのそばにいてお世話をし、自分のことのように応援していれば、その感覚をおすそ分けしてもらえるかもしれないと、そんなふうに思ってマネージャーを選んだ。
ちなみに、なぜ「男子バレーボール部」だったのか、という点については、10代にありがちな、かわいい理由である。
中学の時に憧れていた男の子が、別の高校でバレーボール部に入部したことを、その高校の友達から聞き、「試合で会えるかも!」というミーハーな気持ちで男子バレー部を選んだ。
まあ、10代の選択肢なんて、その程度のものだ。女子にモテたくてバンドを始める、みたいなのと変わらない。
かくして、私は男子バレー部のマネージャーになった。
同学年の部員は、最終的に9人。(最大で18人いたが、半分は1年生の間に辞めてしまった)
中学からの友達のM子もマネージャーをやりたいと言っていたので、一緒に入部した。
マネージャーの仕事は、結構いろいろある。
練習中はボール拾いやボール出し(ボールを手渡す役目)をし、タイムを計る。外を走りに行く時は救急箱を持って自転車でついていく。
練習が終わる前には校内の数少ないウォータークーラーを他の部のマネージャーと取り合って占領し、ヤカンに冷たい水を入れてお茶を作る。
時間があれば、汚い部室を掃除する。
部費の徴収と管理。部費からエアーサロンパスやテーピング、試合で飲むポカリスエットの粉などを購入・補充。
試合中にはスコアの記録、タオルや貴重品の管理、ポカリの供給など。
公立高校だったし、特にスポーツが強い学校というわけではなかった。
ただ、今では創立110年を超えるような伝統ある進学校だったし、みんな真面目に毎日練習に出ていた。適当にやったり、サボったりするような人はいなかった。
他校と比べ、学校として特殊なハンデもあった。夜になると定時制の生徒がやって来るのだ。同じ校舎、同じ教室、同じグラウンドや体育館を使うので、夕方6時には校内から出ていかなければならない。よって、放課後の練習時間は短く、朝練や昼練で補わなければならなかった。「夜遅くまで練習すること」は、うちの部に限らず、どこの部も無理だった。
今でもあの頃のことを思い出すと、不思議な気持ちになる。
彼らは何のために毎日走り、汗を流していたのだろうかと。そして、それをそばで見て、応援しているだけの自分を思うと、不可解でしかない。
全国大会どころか、近畿大会にも一度も行けなかった。試合に負けては、顧問の先生にビンタされていた。(そういう時代だ)
土日も夏休みも冬休みもほとんど関係なく、毎日毎日ボールを追いかけていた。暑い日も寒い日も雨の日も。
あの日々は一体なんだったのだろう。
それに、私とM子は部員のことが異常に好きだった。特に「誰を」というわけでなく、今風に言えば「箱推し」とでもいうのか。
彼らのことをいつも追いかけて、「○○くん、今日こんなことしてたね」と二人で話して笑って、9人の中に自分たちも入れてもらいたくて仕方がなかった。
卒業後は私を含め11人全員が別々の大学に進学した。大学生まではたまにOB会などで会うことがあった。
社会人になってからは、東京や名古屋で就職した人や転勤族になった人もいて、自然と疎遠になっていったが、年賀状だけはやりとりを続けていた。みんなも律義に年賀状は返してくれていた。
部員の3、4人は、草野球ならぬ、「草バレーボール」のようなことをやっていて、兄弟や友達や知り合いなどを集めて、なんとか試合ができる人数をそろえ、アマチュアの地域の大会などにも出場していた。
年賀状に「まだバレーやっています」という一言書きを見るたびに感心していた。50歳超えて、まだ跳べるんだ!と。
一昨年はアニメの「ハイキュー!」をシーズン4まで見てハマり、劇場版「ゴミ捨て場の決戦」まで見た。
アニメとしても面白かったが、実のところ、懐かしくてたまらなかったのだ。
ボールの弾む音。体育館独特のかけ声の響き方。
キュッキュッと床にすれるシューズの音。
眼を閉じて音を聴いていると、「あの頃」がよみがえってきて、10代に気持ちが戻っていくのを感じた。
ぼんやりと、会いたいなぁと思った。ソファで寝ながら、一人ひとりの顔を思い出していた。
そうすると、どうしても彼らに会いたくて、もう一度全員に会いたくて。
2023年の年末、私は文字通り「死にかけて」いた。
年賀状の一言書きをしている時、部員の何人かには「体調が悪いです。生きている間に会いたいです」と書いた。
年が明け、草バレーをしているうちの1人、Hがすぐに動いてくれた。メールをくれたので病状を伝えると、まずは草バレーのメンバーに「同期会をやろうと話してみる」と言ってくれた。
それから春になって、私の治療が始まり、先が見えなくなった。
「同期会、やってくれたらうれしいけど、体調によっては行けるかわからないし、ドタキャンになるかも」と伝えると、「さんちゃん(私)のドタキャンを怒る人なんていない」と返ってきた。それで安心した。
それからHが幹事になり、全員に連絡をとってくれた。
ありがたかったが、ひとつ問題があった。Hが超アナログ人間で、いまだにガラケーだったことだ。日程決めのやりとりなどは、今はもう誰もほぼ使っていない携帯メールで行うので、スムーズに進まなかった。
それでも昨年12月に「同期会の第一弾をとりあえずやろう」というところまでこぎつけた。名古屋、東京(2人)、和歌山などに散らばっているので、全員集合は難しかったが、「こういうのは、とりあえず1回やるのが大事やねん。全員集合する機会を待ってたら、一生集まれないやろ。それで1回やって終わりじゃなくて、定期的に何回もやっていったら、そのうち全員集合するから」とHは言い、第一弾を無理やり開催した。
結果的に言えば、私とM子、HとキャプテンのBの4人しか集まらなかったが、1つ下の部員と同期の女子バレー部員が2人来てくれて、1つ上の先輩がやっているバーで集合したので、同窓会気分は味わえた。
Bが「体調どうやの?」と真っ先に聞いてくれて、奇跡的に治療が効いていることを伝えると、「ほんま、よかったなぁ。心配しとってんで」と喜んでくれた。そして、Hも「すぐに第二弾やろう」と言ってくれた。
ただ、「幹事がガラケーはダメ、絶対!」と私が言い、Hもタブレットなら使えるというので、とりあえず全員でLINEのグループを作ることから始めた(どんなアナログやねん……)。これだけでも結構時間がかかったが、それでもまずは「LINEグループでの全員集合」が叶った。
そして、今年1月11日(土)に「第二弾同期会」を開催。
不参加表明は2名だけで、9名が集まることになった。(残念ながら当日インフルエンザで1名欠席が出た)
高校の近くのお好み焼き屋さんを貸し切って、8人が集まった。東京からも名古屋からも、このためだけにわざわざ来てくれた人が3人もいて感動した。
久しぶりに会う彼らは、もちろん年はとっていたけれど、本質的には変わっていなかった。
懐かしいような、気恥ずかしいような、嬉しいような、他にはない特別な感情で彼らの中にいた。
話していると、一瞬で時間が「あの頃」に戻った。
「あんなことあったな」
「こんなことあったっけ?」
「そうやったなぁ」
と、昔話に花を咲かせて笑い転げた。
もちろん昔を懐かしむだけでなく、会っていなかった約30年の長い時間にあったことも、それぞれ聞いた。30年を埋めるのに、時間はまったく足りなかった。
私もBに「はい、さんちゃん、あれ言って!」と促され、病気のことをまとめて話した。初めて聞いた人たちは驚き、それでも「今ここにいる」私のことをとても喜んでくれた。みんなのホッとした笑顔が今も頭に焼き付いている。
Bが「さんちゃん、話すのめっちゃうまいな。教師に向いてるんちゃう?」と言った。Bは小学校の校長先生をしている。
いやいや、この病気話はいろんな人に何度も語ってきたから、流れも起承転結も落としどころも踏まえているだけなのだが。
Bだけでなく、Hも小学校の先生だし、他の人たちもみんな大手企業に新卒からずっと勤めている。誰も転職などしていないのが「時代」だなぁと思った。
そして、みんな常識人で健康的だった。結局はスポーツマンなのだ。全員がいまだに何かしらスポーツを趣味として楽しんでいた。草バレーをはじめ、ビーチバレーやスキー、ボーリング、会社の駅伝に出るからと毎日走っているという人もいた。
久しぶりに高校の空気を味わった。それはとても穏やかで罪のないもの。悪く言えば「刺激がない」が、純粋でまっすぐであたたかい。
私は刺激を求めてあの空気から飛び出してしまったが、あのやさしい空気は嫌いではなかった。居心地はいい。でも、当時から、自分にはもったいないような、似合わないような、そんな気持ちもどこかにあったのだと思う。
話が少し飛ぶが、「スキップとローファー」という漫画がある。高校を舞台にした友情&恋愛コメディだ。私はこれを読むと、いつも自分の高校時代のことを思い出していた。学校の雰囲気が似ているのだ。
進学校だけど、勉強一筋じゃなくて、部活や体育祭や文化祭などイベントごとも一生懸命やって、変わった人もいるけど、基本的にみんな「常識的ないい人」で、穏やかな空気が流れている。あの感じがよく似ていた。
そんなふうに「ハイキュー!」や「スキップとローファー」で懐かしんでいた「あの頃」が久しぶりに現実のものとして現れたのだ。
Hが同期会の最初の乾杯のあいさつで「卒業したのは35年前。俺らが一緒に部活をやってたのは実質2年半。でも、会ってなかった35年より2年半が強かったから、こうして集まれたんやと思う」というような意味のことを言ってくれた。
確かにとても濃い2年半だったんだ。
でも、一見、無意味に思えるような時間だった。ただ汗を流してひたすら走ってボールを追いかけていた。
大会で優勝もしていないし、特に「あの日々があったから今がある」とか、「あの頃の何かが今の自分をつくっている」とか、誰も思っていないと思う。
だけど、「あの頃」は確かに青春だった。
青春という1ページが人生に刻み込まれたから、私たちはその1ページを忘れられなくて、もう一度めくってみたくて、集まったのだと思う。
「青春」と呼べるような時間が人生にあって、私はよかった。
気恥ずかしくて、絶対口に出しては言えない「青春」という言葉。でも、それが「青春」ってものなんだとも思う。
何よりも、生きているうちにもう一度彼らに会えて、本当によかった。
みんな好きだ。久しぶりに「箱推し」の気持ちが戻ってきた。
第三弾も今年中にやろうとHと話している。
またみんなの元気な顔を見るために、私ももっと元気になるんだ。
※トップの写真は私が通っていた高校の本館の階段です。木造でレトロな雰囲気のこの階段が大好きでした。
20年ほど前に建て直されて、今は味気のないコンクリートの校舎になっています。