獅子座3度
夫がいなくなってちょうど2年経った。死別ではない。
今もあの男はのうのうと生きているのだろうが、私はもうかつての夫を思い出したくなかった。
離婚を切り出されたのも蝉の声が煩わしい夏の日だった。
他に好きな人ができたからと言っていた。
夫は高校教師をしていた。相手はその教え子だという。おぞましい。
30も過ぎた男が何を言っているのだろう。
たったそれだけで、私の元夫への信頼感も愛情もなくなった。
離婚に応じ、手続きそのものはさほど滞りなく済んだと思う。
慰謝料を支払われ、購入したマンションは私の名義になった。
このあたりは、彼の方が気を遣ってくれたが、私からすればその位は当然だった。
教師という職業の性なのかは知らないが、そういうところは真面目だった。
でも、不倫はするらしい。元夫の道徳感が全く理解できない。
今日も、あの日みたく蝉がうるさい。
このマンションも手放しても良かったが、未だに住んでいる。
あまり近所付き合いに熱心ではなかったのが幸いした。
離婚の少し前に、隣の家族が引越ししたのも、今思い返すと運が良かった。
このマンションは3階建てで、各階に2部屋しかない。
隣の家族は私たちの過去を何も知らないし、気に入って買ったマンションを手放すのも癪に触った。
実家に戻っても、親戚がうるさいだけで、だったら、東京で新しい仕事をした方が有意義だ。
離婚が成立してから、私は、近所のファミレスのパートを辞めて、本格的に仕事を探した。
学歴もパッとせず、対した経歴も資格もないが、運よく正社員の仕事にありついた。
それだけで、十分だった。
元夫が、自分の荷物は残さず持っていってくれたおかげで、
家の整理も大した手間にはならなかった。
ぽっかり空いた収納が少し寂しくも感じたが、今は余裕のある収納に感謝している。
もともと、整理整頓は得意ではないし、物を捨てるのは苦手な方なのだ。
学生時代の教科書も制服も未だにとってある。
洗面所に行って顔を洗う。今日は休みで予定も入れていない。
通販で買ったものがそろそろ届くだろう。できれば今日届いて欲しいと思いながら、化粧水で肌を整えた。
昔ほど、肌の弾力がない。ヨガ教室には通っているが、もっと運動をした方がいいだろうか。それともエステか。
おきてから梳かしていない髪はかなりうねっている。キャミソールにショートパンツというだらしない格好だが、別にいいのだ。誰に見られているわけでもない。
なんとなく髪をとかして、肩に流した。もう10年以上ロングヘアだ。
くたびれたシュシュで左耳の下でひとつに結んだ。
高校生の時にこの結び方が流行っていた。
ふと、思いついて、私はクローゼットの奥から衣装ケースを取り出した。
高校生の頃に来ていたセーラー服と、ジャージがあった。
ジャージには名前が縫い付けてある。夫と別れて再び名乗るようになった旧姓。
夫とは、高校の同級生だった。この制服を着て、学校帰りにデートをした。
自転車で二人乗りをして、交番のお巡りさんに見つかった。
注意はされたが形だけだった。子供からすると話のわかるお巡りさんだった。
夏休みの花火大会の日に初めてのキスをした。
お互い進路の決まった高校3年生の春休みに初めてのセックスをした。
あの初めてのキスから何度目の夏だろう。
夫と結婚した時は、この幸せがずっと続くと思っていた。
悲しい。悔しい。
別にもうあんな男に未練などないのに、気がつくと泣いていた。
セーラー服を着てみた。
体型そのものはさほど変わっていないようだったが、えらく垢抜けない。
こんなものは10代にしか似合わない。
夫とした初めてのセックスを思い出す。
あの時のように、自分の体に触れてみた。
たどたどしく、それでも宝物を扱うように大切に触れてくれた。
その時の私は幸せだったはずだ。
あの時の夫のセックスだって今思い返せば、ひとつも上手じゃなかったのに。
そんな幸せをくれたはずだったのに、彼はもういなくなった。
惨めな気持ちの自慰は何も気持ち良くなかった。
なのに、花弁が濡れてしまうのが情けなかった。
私は、一体何をしているのだろう。
こんな惨めな気持ちも、痛々しい制服姿も、鬱陶しい夏のせいにしてしまおうか。
玄関のチャイムの音が、私を現実に引き戻した。
着替えても待たせるだけだから、もう似合わなくなった制服のまま、チェーンを外さずに玄関のドアを開けた。
宅配便だ。外に置いといてくださいと声をかけて、伝票にサインをした。
少し開けたドアから伝票を返した。多分、この姿は見られていない。
配達員が帰って行ったのを見計らって、段ボールを部屋に入れた。
似合わないセーラー服を着た髪の乱れた女の姿が鏡に映った。
時計を見たらまだ昼前だった。
これから美容院に行こうと思いついて、リビングにスマホを取りに行った。