思いついたことを言葉にしてみる #05 ステキなあいまい
私は他人よりもせっかちな性格と自認しているが、それでも即断即決は苦手である。そもそも、そのような状況に遭遇したとき、「それって、今なの?」という疑問符がまっさきに思いつく(声には出さないけれど)。他人からは優柔不断と思われるであろうが、それは私の思考プロセスのスピードが妨害されることへのささやかな抵抗なのかもしれない。
衝動買いなどはままあるけれど、それは考えた末の行動よりも、奇妙に昂った感情のしわざと思う。その結果、後悔したことは数知れない。ただ他人に迷惑をかけていないことがせめてもの救いだ。肯定と否定のごちゃまぜ。人間の精神って、つくづく矛盾だらけ、という思いが脳内によぎる。
こんな思惟を続けているうちに、私は「何も決めない」選択をしてきたのでは、と思いつく。たとえばこんな話。
私の思考のクセで「好き」という感情が出る前に、まず「キライじゃない」という言葉を置いてみる。肯定も否定もしない「あいまい」な領域にとどめておく。
なぜなら「好き」とか、自分が決断したと思い込んでいる言葉が持つチカラはまことに強くて、いとも簡単に私の感情を支配してしまう。そうなると私の思考や行動は原理主義的になってしまい、様々なことで不寛容さが顔を出してくる。
時間稼ぎ的な「あいまい」の領域だけど、いろんな思考が共存できる空間、区切りがない分だけ出入り自由のゆるゆる広場。そんな空間を自分の中で持てたら、とてもステキに思える。時間の許す限り「あいまい」の広場にやってくるいろんな視点をもって考えることで、即断即決したものより充実した結論を持てそうな気がする。
しかしながら、現実では「あいまい」のままでいられることってむずかしい。私も前職では常に「結論から先に言って」という空気の中で仕事をしてきた。常に選択の連続で、なぜこれを選択したかわからなくなったり、それに加えて「スピードが命」的な加速主義が輪をかけて押し寄せる。どうしてそんなに結論を急ぐのか、他人事のように思えてきて、そのステージから降りる選択をした。今考えてみれば、もしかして「あいまい」に寛容なステージへ移りたかったのかしらと思ってしまう。
今の生活においては、前職に比べていろんな関わりが少なくなったこともあり、「あいまい」にすること自体も少ない。私ひとりが何も決めなくても、世界は勝手に回っているということも肌身で感じることが多くなった。
大げさな話に飛躍してしまうけれど、あいまいのままにしている間って、世界的にも平和な時が流れていたように思う。それがどこかで声の大きい人たちが原理原則を主張し始めてから世界がワサワサしてきた。
今は何も決めない、という選択はむしろ尊いことなのかも。昔の賢人はあえて問題を先送りしていたのかなと。そんな歴史は少し振り返ればすぐ思いつく。
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