思い付いたことを言葉にしてみる#10 おわりのはじまり
いきなりだけど、『おわりのはじまり』という言葉にすごく愛着を持っている。
平成の時代に私はすべての肉親を喪い、「人生は必ず終わる」ということを徹底的に意識させられた。それと同時に、私の人生の終わりについても、深くはないけれど、種火のように消えることなく、小さな意識が動き始めては、いつしか「おわりのはじまり」という言葉を思いついたのである。
今でいう「終活」に近いかもしれないけれど、「おわりのはじまり」を意識しながら行動すると、いろんな振れ幅が経験できて、慌ただしい。例えば、ものを買うときなど、私が亡き後、いま買おうとしているものを、知人が見て、どう思うだろう、と余計な詮索を思い巡らしては、無理して一ランク上の物を購入し、余計なコストを掛けただけの後悔に陥ったり、いろんな選択場面でも、慎重になったり、大胆になったりと、判断基準が大ブレしてしまう。
それでも効用として、ひとつ。さほど遠くない私の人生の終わりを意識すると、幸いにも悲痛な気持ちにはならず、今がそのはじまりとして、残りの人生に何をしようか、ということをじっくり考えることができる。幸いにも五体はほぼ思い通りに動けて、そんなに遠くない来年や三年先位の、現実的な見通しができたりする。そんな思索をしていれば、先行きの見通しが絶望的なこの国でも、母国を見捨てることなく、愉快な時間を過ごせそうな気がする。
私の場合、日本百名山をひとつでも多く踏破することが大きな見通しであり、私生活の中でもそのことにはためらうことなく時間も金銭も使っている。還暦間近で見つけた娯楽だから、少しでも長く維持できるよう、身体が鈍らないことを気に掛けていると、少なくても健康的な日常生活を送れていると思う。これは副次的な効用。
もうひとつ、そのせいかはわからないけれど、物事のおわりを意識すると、私の周りの世界との接し方が、柔らかくなってきた気がする。前のめりにならず、一歩引いてみる余裕ができたのか。私にとって、生きていく上で、たいせつな人が、誰と誰と誰とがはっきりわかってきては、その人たちがものすごく愛おしく思えてくる。そして、その人たちを傷つけないよう心がける。愛情を示すより、ウザくないかも。
どことなく『哲学的な響き』を感じたりするけれど、それは、すべてに終わりがあることを意識することで、限度を知る。限度を知ることによって、その中で何ができるかを肯定的に考える。
『人生って何ですか?』と聞かれたら、『生まれてから死ぬまでの時間のこと』って、誰が言っていたか忘れたけれど、いまの私にこれ以上の説明はいらない。