コミュ障でも一生のパートナーができるまで①
私は人と話すのが苦手だった。
子供の頃、近所に年の近い子供が居なかったし、父も母も仕事で家におらず、居ても疲れ切った両親は話しかけると怒るので極力物分かりの良い子供を演じた。姉はといえば友達と毎日出掛けていたし、なにより私の事を嫌いと公言していた事もあり、何度も「ついてくるな」「話しかけるな」「あんたなんか生まれてこなければ良かったのに」なんて言われ続けたので、気がつけば家族でさえも関わるのが怖くなってしまっていた。
なので幼稚園に上がるまでの私の友達は、テレビか本か裏側が白い広告の紙。
生身の人間と話す事が無い上に、分かりやすい言葉にしか触れてこなかった事で、幼稚園に通い始めた頃、周りの子供の会話が宇宙人が話しているのかと思う程に理解できなかった事を、今でも鮮明に覚えている。
私が通っていた幼稚園には、数時間毎に動くディズニーランドのイッツ・ア・スモールワールドに似たデザインのからくり時計が有り、それを見る事が幼稚園に通う唯一の楽しみだった。
からくり時計の中の楽しそうに踊る人形達は、何の苦しみもない満面の笑顔で、見ている自分自身も幸せになった様な気持ちになった。
グラウンドから見えるからくり時計、見る為には外に出ないといけないので、昼食後の自由な時間は雨が降らない限り外に出てグラウンドから時計が動くのを眺めていた。
1人ポツンとたたずみ続けて数ヶ月経った頃、男の子のグループの1人が「ボール投げれる?」と声を掛けてくれた。
声の出し方をすっかり忘れていたので、頷いて答え仲間に入れてもらった。
こうして考えるより感じろ的なノリで、一緒にドッチボールや野球、サッカーなどをする男友達ができた。
そこに言葉は要らず、けして上手い訳では無いのだけれど皆優しくて、ただ同じスポーツを一緒に楽しんでくれた。
それが私が人間として他人とまともにコミュニケーションを取れた瞬間だった。
そこから少しずつ会話ができるようになり、周りの子供達の言っている事を理解し始めて、良かったと思うところだろうが、理解できなければ良かったと思った。
気がつけば、私はクラス中の女の子から嫌われており、陰口の内容からして幼稚園児にしてビッチの称号を得ていた。
大変不名誉な事である。
それでも、姉から浴びせられる言葉よりは幾分柔らかく感じたので放置を決め込んでいた、その事が事態を悪化させ、とうとう人生初の呼び出しをされる事になる。
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