ブレイン・マシン・インターフェイスの根本的限界
ジパングを観て、太平洋戦争時にもしイージス艦があったら
世界はどう変わるのかを考え、
もし自分が未来を知っていたら、どう行動するかを考え、
結局自分は何のために生きているのだろうと、がっかりした。
未来や秘匿情報はブラックボックスである。
無知な人はそれを推定するしかない。これは逆問題を解く事に相当する。
未来や内部情報を知っている場合、膨大な可能性を考慮する必要はなく、
点と点を結ぶだけなので意思決定は非常に楽になる。
順問題を解く計算量で済むからである。
犯人を最初から知っている状態だと、
プロット同士は一本の線でしか結び付かない。
これが順問題である。
犯人が分からない状態では、状況証拠であるプロットをノードとして
そのノード間の全ての組み合わせのネットワークから
1通りの組み合わせの正解を導き出さなくてはならない。
これが逆問題と順問題の計算量の差である。
当然逆問題を解く方が数億倍難しいし、現実的な時間では解けない事もざらにある。
各種指数を分析して売買する銘柄を決定するよりも、
上がる銘柄や当たる宝くじの番号を予め知った上で買う方が
遥かに簡単なのと同じである。
順問題を解いているつもりが、いつの間にか逆問題になっている。
検証結果がことごとく予測から外れている。
自分のコントロール外にあるものはデバッグすら出来ない。
自分の力では何も出来ず、想像した未来にはいない。
ネットがなければ、全く違う人生になっていたと思うが、
果たして本当にそうだろうか。結局同じようなところに落ち着いたのではないか。
確かに公開された範囲内では最新の情勢が分かるが、
本当に重要な情報はネットでは得られないのではないか。
ネットの力を以てしても、内部には入り込めない。
誰かから給料をもらい、時間を売って生きて行かなくてはならない。
何も変わっていない。ネットにそこまでの解放力はない。
何の目的もなく状況に合わせて生きているようにしか思えない。
時代が変われば生き方も簡単に変わってしまうだろう。
未来を知っていたり、秘匿された重要な情報、考え方を身に着けていれば、
それも大きく人生を変えるだろう。情報に勝る力はない。
進化速度が遅く、自分は余りにも弱い。
BMIがあればそれは変わるのだろうか。
BMIとAIは個人の生産力向上に寄与し、
衣食住と通信に関わる生活インフラを
個人で製造管理する事を可能とする。
経済的・時間的拘束からの解放という意味では、
ゲームチェンジャーなのは間違いない。
しかし未来を正確に予測したり、
内部の情報を取ってくると言ったような、
時空間の不確定性の問題は解決出来ない。
時空を順問題として解く事はBMIやAIによる
知能拡張を以てしても出来ないのではないだろうか。
時空間的不確定性というブラックボックスに対しては、
量子の非局在性を利用して情報を取ってくる事ができる。
ただそれがどういう技術になるのかは、全く想像が付かない。
任意の時空間の点に対して読み出しと操作を行うのだろう。
2点間をカップリングさせるという意味では量子もつれを使うのかも知れない。
生体内で量子状態を保てるのであれば、脳でもそれが出来る。
もし全てを知る事ができ、全てを意のままに操れたら、
どう行動すべきかという問題がある。
追記 (2022年1月26日)
最近は順問題を解いているという感覚を取り戻しつつある。自分の手で未来を創ったり人類進化に貢献しているという感覚が無い事もない。常に暫定的なのは否めないが今は死ぬまでにやっておきたい事が見えているし、そのゴールに辿り着くまでの段取りや戦略と言った勝ち筋がほぼ見えている。とは言いつつも自分一人ではこの状態は決して実現できず、人との出会いや偶然に支配されている側面もある。人生が順問題であるためには、自分が決めた方向に物事が進む必要がある。途中で目標を大胆に諦める必要もあるかも知れないが、それを自ら決定する事が重要である。人生に対してsense of controlを持ち続けるという事である。何かの目標を諦める場合でも、それはより高次の目標を達成するために資源を集中させた結果であるべきだ。それと真逆の主張ではあるが、人生のコントロールを完全に手放す事によってそういう力が手に入ったり出会いが訪れる事もあるのではないかと思っている。希望は持たず、結果を期待せず、しかし全力で取り組むという事である。
極論すると実は人生でやりたい事などない。面接で入学や入社の動機を聞かれる事があるが、そんな動機を持っている人間などそもそも存在しない。金をもらえるから働くのであり、働かせてもらうために進学するのだ。入学すればすぐに卒業単位が欲しいと思うし、入社すれば早くリタイアしたいと思う。一生遊んで暮らせる人でも目的なく何もしないで生きるのは苦痛を感じるそうである。死にたくないという本能的な恐怖は誰しも持っているが、かといって人生を生きる積極的な理由もない。生きる事を一種の罰ゲームと捉えればある程度腑に落ちる。誰しも(本能的に)死にたくないのと同時に生まれて来たい人間もいない。一度生まれてしまえば逆止弁の付いたトンネルの中を進む事しか許されない。ゲームと違い一旦生まれ落ちると中断もリセットもやり直しも効かない。生きるという選択肢しかない時点で罰ゲームなのである。楽しい事でも繰り返すとドーパミンの分泌がサチってくるので常に新しい刺激が必要になる。快楽中枢に電極を埋め込まれた人間は電流を流すスイッチを自分から遠ざけてくれと懇願すると同時にスイッチを押し続けるらしい。いかにも人生そのものという感じがする。刺激を求める程沼に嵌っていく。好きか嫌いかで判断した瞬間に人生は分からなくなる。好きか嫌いかで判断している限りこの二元性と矛盾からは一生脱却出来ないのかも知れない。いつか罰ゲームに感謝できる日が来るといいと思う。
課題未消化の状態で自殺するとカルマが重くなるだけなので選択肢に入らないが、一部天才のように若くして死ぬ事が許されるのであれば、迷わずにそちらを選ぶ。だからそのレベルに達するように努力する他ない。まあその前にきっと時間切れでお迎えが来るのだろうが。残りの人生は全て消化試合である。所詮消化試合なので勝敗(目標が達成できたかどうか)などはどうでもいい。でもその試合をきっちりと消化する事に意味があり、それで誰かの人生が豊かになるのであれば、本試合と同じ熱量を以て全身全霊で勝負する。ただ勝とうが負けようが暇つぶしである事には変わりない。死後転職に有利な履歴書は書けるかも知れないが。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?