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傷付いていないフリばかり上手くなる
映画を見終わった直後のあの何とも言えないふわふわとした気持ちが少し苦手だ。
でも時間が経つにつれて、次第に、その時の自分の人生とリンクさせながら物語を解釈し始める。その作業は凄く好きだ。
それは誤読かもしれないし、作り手の意図するものとは違うかもしれないけど、それはさして関係ない。自分の文脈で捉えるということが何より大事だ。
同じ映画を何度見ても、見るタイミングその時々で感じ方や解釈も変わる。だから何度見ても新鮮に思う。
その点、音楽は似ているようで、違う。なんというか、音楽はもう少し瞬間的であり、そのモーメントを大事に保存しながら思い出になっていく感じ。
だから昔よく聴いていた音楽を久しぶりに聴くと、一瞬で当時の自分の状況や情景、感情が蘇ったりするんだけど、映画は見る度にブラッシュアップされるしアップデートもされていく感じがある。
そんな体験が好きで気に入った映画は何度も見る。
先日、今更ながら2021年公開の「ドライブ・マイ・カー」を見た。
せっかくなので、原作となった村上春樹の短編小説を事前に読んだのだけど、ここでも新鮮な体験をする。
久しぶりの村上春樹は、昔読んだ村上春樹よりもずっと好きになっていた。彼の文章はこんなにも心地良かったっけ。
子供の頃好きじゃなかった食べ物を、大人になって久しぶりに食べたら意外と美味しい、みたいなそんな感覚。(村上春樹のことは好きでも嫌いでもなかったけど)
話はズレたが、「ドライブ・マイ・カー」は凄く良かった。何が良かったかはまだ整理できてないけれど、とにかく良かった。
大人になると、傷付いているのに、傷付いていないフリがうまくなる。
「傷付いている」と言えばいいのに、言えないのはなんでだろう。
嫌いな食べ物を食べられるようになった代わりに、出来ないことも増えていく。
たぶん「傷付いている」って認知した瞬間、それを言葉にした瞬間に、弱くて惨めな自分を認めることになるからだ。
深く傷付いたときって、往々にして、自分と同じぐらいの愛情を相手から受け取れなかったときでしょ。
でも相手から同じぐらいの愛情を受け取れることなんて、きっとありえない。
そんなことはわかってるような顔して、平気なふりして、見て見ぬふりして、演技する。自分の心に対して盲目になる。そんなことばかりが上手くなる。平気なわけがないのに。
でもそんなふうに傷付くことから逃げて、なんとなく表層を漂って生きていくことは、美しくないって思ってしまった。
相手と100%理解し合うことはできないけど、それでも相手のことをわかりたいって思うなら、自分を掘り下げていって差し出すしかないんじゃないかな。
それは傷をえぐっていくような苦しい作業だけど、
それでも正しく傷付きたいと思った。
そんなことをしてまでも他人と一緒に生きていきたいと思う私たちって、呆れるぐらい他人中毒だ。
1回観た今の気分はこんな感じなんだけど、この映画を再度見たときに、自分がどんな解釈をするのか楽しみ。