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練武知真第45話『そして武術を手放す』

武術の修行における最終的な段階は「自由になる」という事です。

「自然体になる」とも言い換える事ができるでしょう。

 

【形意拳】における「三層之功夫(三段階の修行過程)」では、

基礎的なチカラの出し方を学ぶ「明勁」、

更に巧妙になり、僅かな動きでチカラを発生させる「暗勁」、

そして、最後の段階である「化勁」では形式や形を脱して、その人物に適合した自由な境地へと至ります。

 

【八卦掌】においても同様の三段階の修行過程があります。

「定架子」では一つ一つの技を丁寧に構築してゆき、

「活架子」では各技を途切れることなく連動させ、

そして「変架子」では何ものにも縛られない自由自在の境地に至ります。

 

形意拳も八卦掌も、最終的に求めるのは、形に縛られずに、その人が、その人らしく、自然に戦える境地です。

 

それでは、形に縛られず、技からも脱した状態とはどんなものでしょうか?

 

人間を構成する三つの要素【心】【頭】【体】を考えた場合、技とは知恵、すなわち、頭脳活動に相当するので・・・

 

技を抜けると、後に残るのは【心】と【体】になります。

長年の修行によって練りに練られた心身のみとなります。

 

言い換えると、武術家は技の鍛練を通して、【心】と【体】を向上させてきたのです。

 

そして技や知恵は後天的に得てゆくものですが、【心】と【体】は、私達が生まれた時から与えられたもの。

 

勿論、修行によって高度に精錬させてはいますが、【心】と【体】はその人の個性・・・本質です。

 

故に武術における最終境地とは、その人の本質をもって、あらゆる状況に対応してゆく境地となります。

 

そう『自然体』です。

 

何ものにも囚われない境地。

ただ『ある』という境地。

 

その事に気付いた時、ふと私は思いました。

 

これまでの人生において常に武術を意識して生きてきた私。

 

日本武道から始まり、中国伝統武術の門に正式に入って、様々な訓練を嬉々としておこなってきました。

 

日常生活においても、歩く時も武術で歩き、歯を磨く時も武術から離れず、寝る時ですら武術の姿勢で寝てきました。

 

これは・・・ある意味「武術」に囚われているのではないか?

 

常に武術家であろうとする気持ちは、気負いとなって、私の生まれ持っての個性を発揮して生きる事を抑制しているのではないか?

 

外出中も武術家であろうとして、警察に20年間勤務してきた経験も相まって、周囲を警戒する癖が心身にこびりついてしまっています。

 

街行く人達は、もっと自然に、もっと自由に、喜怒哀楽を表しているのに・・・

私は武術家であろうとして、どこか薄いバリアを張って生きてきたように感じたのです。

 

これまで修行してきた自分を信じ、そういった「武術家」であろうとする執着を手放す必要があるのではないかと考えるようになりました。

 

それが武術の最終段階『自然体』へと至る修行になると。

 

心を無防備にして自然を感じ、

色々な人達と心の垣根なく豊かにコミュニケーションをとり、

心を白紙にして様々な文化や芸術に心で触れて・・・

自分本来の、自分の本質である【心】と【体】を手に入れてゆく。

 

私は知っています。

武術修行において何度も経験してきた「執着を手放す事によって先へ進む事ができる」を。

 

そして「必死にやってきた事は心と体に染み付いている」ことを。

 

「武術を手放す」という事は、心身から武術を抜き捨てるという事ではありません。

 

自分を束縛している過剰な執着から自らを解放し、「さらに先へと進む」という事です。

 

それまで行ってきた「何かを行う」という修行スタイルから、

「自分の本質を感じる」というスタイルへと変化、進化するという意味です。

 

勿論、私はこれからも武術を伝えゆきますし、練習や研究もするでしょう。

 

しかし私自身の次なる修行のテーマは『私』なのです。

 

心が開く感覚がします。

武術を手放した私の前には、無限の可能性と、広大な世界が拡がっています。

 

なんと心踊ることか。

 

 

2024年12月25日 小幡 良祐

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