音楽における商業性⑧

今日は日本の音楽における「隠された市場」について書きたいと思います。

もちろん音楽だけではなく、もっと大きな話です。

音楽なんてそこでは大した話ではないでしょう。

話を拡げ過ぎてもややこしいのですが、ここを書かないと話が進まないので、今回はご容赦ください。

日本の場合、教科書は検閲じゃなかった、検定に通ったものしか選べないことになっています。

ただ、いわゆる「国定教科書」ではありません。

「検定」に通った教科書であれば、不思議な教科書(特に日本史)でも検閲、じゃなかった、検定に引っかからなければ、教育に使うことが出来ます。

普通に客観的事実ですら(それこそ年号とか)、間違ったまま通してしまう検定、というのも良く分かりませんが。

まあ、そういう正誤チェックはしていないんでしょうね(笑)。

で、「国定教科書」であれば、そこに何らかの取引があれば、政権が倒れる位の話になるでしょう。

ただ、実際の教科書の採択は公営学校(国立校はこれに当たらない)の場合、市区町村の教育委員会によって行われることが多い。

ここに実は「市場」があるんですよ。

各教科書発行社から、色々な形の「支援」があります。

実際に我が家のカレンダーの中に、そのように想定されるカレンダー、ありますから(笑)。

毎年とある方(教育関係者)から頂いているのですが、実際に購入した場合に付いてくる付属物がありません。どうやら教育委員会に配られているもののようです。

これ以上細かくは書きませんが、教科書会社から教育委員会に送られた「お歳暮」なんでしょう。

「商業性」が担保されるには市場が必要ですが、ここで市場が生まれる訳です。

国家がやったら大汚職でも、細かく単位で行われると見えにくくなるし、「社交儀礼」の範囲内になってしまう。

そんなことない、と言われる方も多いでしょう。

でも実際、教科書会社、頻繫に「教育委員会」、場合によっては有力者の元に通っています。

何もなかったら何もしない、資本主義というものはそういうものです。

何かあるから何かするんですよ。

音楽なんて可愛いものかもしれません。

少し、というかかなり脱線しているので、明日は少しは音楽よりの記事を書くつもりです。

少しかよ、と言われればそれまでですが、まだ何を書くか決めていないのでしょうがありません。

行き当たりばったりの人生です…。

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