作曲の方法論㊳
昨日記事を書いていてふと感じました。
自分の場合「近代的自我」というものに対して拘りがある、ということです。
よくよく考えてみると、このワードが頻繁に出てくるんですよね。
例えば「自己同一性」とも近縁のワードかもしれません。
そんなもの無くても聴いてて良ければいい、という考え方も当然あるんだと思います。
まあ「音楽」ですからね。
それはそれで一理あるものかもしれません。
では何故自分は「近代的自我」に拘るのでしょうか。
多分「自分が試行錯誤しながら制作する」というところに拘りがあるのかと思います。曲なんて作ろうと思えばいくらでも量産することは可能ですから、
ただやはり「量産」するためには、ある意味「型にはめる」ような制作方法にしないと難しいと思います。
まっさら(とは言っても過去からの音楽の延長線上ですが)な状態から作品制作を行なうのと、例えばある程度決まったコード進行から制作するのではやはり工数が全く違います。
ただやはり「パターン」からの制作はしたくないですね。もちろんどの曲も似たコード進行のパターンだったり、特定のコード進行の流れが頻発するような曲だと、ある種の「心地よさ」はあるとは思います。
聴いていて安心だし、「自分のパターン」が決まっていれば、あ、あの人の曲だ、と分かりやすくはなるでしょう。
もちろん「分かりやすい」というのは重要な要素だし、自分も完全に否定することは出来ません。
ただ、自分の場合「どの曲」をとっても「あ、今度はこういう曲を書くんだ」という形にしたいと考えています。
それには勿論「理由」があります。
明日はこの点について少し掘り下げていきたいと思います。
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