作曲の方法論㉔
昨日は「音楽の構成」について書いているうちに、結論のないような話になってしまったので、元に戻したいと思います。
もちろん音楽の構成について書いてもいいのですが、クラシックの構成なんて書き出した日には、それこそ論文並みの長さになるので止めておきます(笑)。
まあそのようなことは調べれば分かる話ですし、自分が書く必要性もないですからね。
やはり記事でも「オリジナリティ」を出したいんですよね。悲しいまでに「近代的自我」に捉われた人間なんですよ(笑)。
で、「複雑な構造の作品」について今日は記事にしたいと思います。
まあ何を持って「構造」とするか、というのも「定義」の問題なので、あらかじめ「定義」を決めておきます。
ここでは「複雑なコード進行の作品」=「複雑な構造の作品」とします。
違う、っていってもダメですからね。これは「定義」なので、自分が書く記事である以上、自分に決定権があるのです(笑)。
でも「複雑なコード進行」と言ってもまた問題が生じます。
例えばEW&Fの「After The Love Has Gone」のような「転調をしまくる曲」をどう捉えるか、という問題があります。
もちろん転調をしまくれば「複雑なコード進行」に見えますが、それは転調しているからそう見えるだけだと考えています。
「転調をしまくる曲」はある意味「シンプルなコード進行」になりやすい傾向がある、というのが自分の考えです。
何故かと言うと「転調感」を感じさせる、ということは、調性が変わったことを提示する必要があるから、各調性の中では調性感をはっきりさせないと「転調の多い曲」には聴こえないからです。
コード進行全体を見渡すと「何これ?」になる可能性もありますが、細部を見ると、調性感は意外と明確なものです。もちろんノンダイアニックコードが頻繁に使われる場合もありますが、調性感自体を崩す訳にはいかないでしょう。
やはり「転調しまくる曲」は「転調感」を感じさせないと意味がないですからね(笑)。それがある意味「狙い」なので、自己否定になってしまいます。
各調性の内部が複雑なコード進行になり、調性感が希薄になってくると、転調しまくっていても、「転調しまくる曲」という捉えられ方にはならず、「複雑な構造の曲」の曲になるんだと思います。
まあこの辺は微妙なところで、そこまで行くと限りなく「無調」の世界に近づいていくような気もしますが...。
あれ、いつの間にかコード進行の話じゃなくなってる...。