作曲・編曲130
昨日は話が膨らみすぎ、結局何が言いたいのか分からない話になってしまったので、一旦休んで考えました。
とりあえず今日は、自動作曲と凡庸な作曲者との近親性について考えてみたいと思います。
前にも書いた話ですが、コードが分からない方の曲が単純な循環コードに寄り添ったものになりやすい、という話を書きました。
それだけ循環コードは強いんですよ。
もちろん鼻歌歌って「Just the Two of us進行」になる、ということは考えづらく、コードから作らないと出来ないような循環コードは除きます。
というのも、こういうコード進行自体が頭の中にないからです。まあこの進行を多用するYOASOBI効果で、そういう方も今後は出現してくるのかもしれませんが。
最近の曲はノンダイアトニックコードを経過的に使っている曲も多いですが
、これは後からリハモされたものであり、元々は単純なコード進行であったことが容易に想像出来ます。
でそういった単純なコード進行やそれに沿った旋律が頭の中に残っているんですよ。
もちろん天才(もしくは変人(笑))であればそういうところから新しいものが生まれることもあるのでしょうが、圧倒的に数が少ない。
そう考えると、こういった方の作曲ロジックは自動作曲のそれと大差がありません。
従来の作品を踏襲したものを制作しているだけ、そこに明確な差はないでしょう。
明日はここから逃れる方法について考えたいと思います。
ほぼ書きたいことを書いていて、読んでいただけることも期待していませんが、もし波長が合えばサポートいただけると嬉しいです!。