1998年②
やはりこの年と言えば、この方抜きに語ることは出来ないでしょう。
宇多田ヒカルさんです。
もう何度も書いていますが(笑)。
いきなりJ-POPを書き替えてしまった存在ですから、やはり何度でも書かざるをえないと考えています。
前にも書いていたと思いますが、今でこそ高い評価を受けていますが、実は当時の音楽業界での評価はそれほど高くありませんでした。むしろMISIAさんの方が評価は高かったのです。
もちろんMISIAさんの評価が今低いということではありません。むしろ宇多田ヒカルさんの評価が低すぎたのです。まあ、低いと言っても「相対的」な中での低さであったことは言うまでもありません。
そもそも「ミュージシャン」を相対的に評価する、ということ自体がナンセンスなことは言うまでもありません。
ただ「相対的」なものだったにせよ、評価が低かった、と書くと驚かれるかもしれません。「Automatic」にしてもあれだけヒットした訳ですから。
ただヒットさせたのは「聴き手」であって、音楽業界の方がヒットさせた訳ではありません。
曲を分析すれば分かる話なのですが、それほど複雑な曲を書いていた訳ではありませんから、そういう視点からすると、分かるような気がします。
どちらかというと、「音楽業界の方」全般の評価はそれほど高くなかったのに対し、「ミュージシャン」の間ではかなりショッキングな出来事だったという話もあります。
「音楽業界の方」=「ミュージシャン」ではなく、ミュージシャン意外にも音楽業界の方は大勢いますから、こういう現象が起きても不思議ではありません。
やはりいきなり出てきて、こんな曲出されたら、ショックは受けるでしょう。
これまでの感覚からすると、短調の曲をあのようなリズムで作る、という感覚自体がとても新しかったでしょうし、あまり考えつかないことのように思えます。短調をあのリズム、独特の譜割に乗せることで、これまでの短調にありがちな曲とは全く異なる作品を作り上げてしまったのです。
そもそもJ-POPで短調と明確に言える曲の割合はかなり低いです。日本人はどちらかというとメジャーマイナー的な、長調が基本にありながら、そこに短調の要素を加えた曲が好きな傾向が強いからです。もちろんこの曲にもメジャー的な要素はありますが、全体を通して聴くと明らかに短調です。
完全な長調だと明るすぎるし、短調だと暗い、だからこそメジャーマイナー的な曲が好まれるのだと思います。
恐らく「歌謡曲」との差異を明確化するために、このような傾向が生まれたのだろうと考えています。
だからこそ、セカンダリードミナントの使用頻度はⅢのメジャーコードが多くなる訳です。
並行調のドミナントですから、この和音を持ってくることは短調を予感させる、だからこそ長調の中にこの和音を組み込むことで、「翳り」を出そうとする場合が多いと思います。
ただそういう観点からすると、明確な短調である「Automatic」は歌謡曲的とも言える訳で、恐らくその辺が「結局歌謡曲?」的な感覚を引き起こし、この作品の「斬新さ」を「単に歌謡曲に無理矢理向こうのリズムを組み込んだだけ」としか捉えない方もいらっしゃった、というところなのかと。
でもそんなこと取っ払っていきなりあんな曲が出てきた、だからこそミュージシャンは衝撃を受けた一方、上に書いたような理由から、一部の楽楽業界の方からは、こんなのでいいの?、という疑問を持たれ、それが故に一部からの「低い評価」に結びついたのかと感じています。
その後の「First Love」で一気に評価は上がりますが、やはりパフォーマンスという点でまだ批判的な声が多かったようです。
で、この曲は逆に長調なんですよね。リズム重視の曲に短調、バラードに長調、というのは明確な意図があるように感じます。
宇多田ヒカルさんの曲は比較的短調が多いです。ただやはりこの傾向はある程度見られるようで、例えば最近の曲で言えば「花束を君に」は長調ですよね。
もちろん、宇多田ヒカルさんの曲でも長調でⅢをメジャーで使うことも多く、やはりこの辺は致し方ないところではあるとは思いますが。
メジャーマイナーではなく、こういうところで変化を付けるところが「上手い」と思います。
もちろん例外も多いのですが、作品群を俯瞰的にみた場合、他の方と比較すると、明らかにこの事が「傾向」としてはっきり見えると思います。
まあその後の快進撃が続くことにより、そんなことを言う方はほとんどいなくなった訳ですが、少なくとも当初からミュージシャンに与えた影響は大きかったでしょうし、その後の音楽を変えた存在と言って間違いないでしょう。
まあ個人的には昔の宇多田ヒカルさんより、今の宇多田ヒカルさんの方が好きですが、与えたインパクトの大きさから言えば、やはり初期の頃の作品群だと考えています。